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2F/当番ノート

名前は、古くならないお守りのようなもの

当番ノート 第53期

幼い頃、自分の名前が嫌いだった。上の名前も下の名前も大嫌いだった。

わたしの旧姓は動物の名前とリンクしていて、幼い頃は頻繁にそれについてからかわれた。
小学校低学年の時は点呼のたびに誰かがその動物の鳴き声を真似てみせて労なく笑いを取った。

わたしは「女の子は結婚すると苗字が変わる」という事実を知って歓喜して、嬉々として家族に報告し父親を苦笑いさせた。
「いつか名前が変わること」、大げさな話だけどそれを希望に生きていたと言っても過言じゃない。

同時に、下の名前は結婚しても変わらないというのは本当に憂鬱だった。
名簿の中で浮いている、ひときわ古風な名前。せめて漢字がハイカラならば救いがあるもののそれもない。

改名について本気で調べたこともあった。けれど改名はそもそも生活に支障がないと不可能らしい。
生活に支障、あるんですよ。気持ちが鬱々とするんですよ。どうか分かってもらえませんかね?
心の中で悪態をついた。

わたしは自分の名前を錆びていると思った。

時は流れ、この名前もまあ悪くないか他の人と被らないし……と気持ちを落とし込める年齢になった頃、友人から「中学の同級生が死んだ」と聞かされた。車の事故らしい。

その男の子は中学1年生の時に出席番号がひとつ後ろで、入学早々わたしの苗字をからかってきた子だった。
メソメソと泣いていた小学校低学年の頃とは違い、中学生になるともう「まだコレ言う人いるんだ。幼いな」程度に受け止められるようになっていた。

お通夜に行くかどうか親に尋ねられたけど行かないと即答した。訃報を聞いても蘇る情報がわずかしかなかったのだ。何度も動物の鳴き声を後ろから真似してきたことくらい。
普通、人が死んだのだから、思い出すことなんてもっと他にあるはずなのに。

彼の名前と、わたしの名前。頭文字だけが一緒だった。

娘へ。2020年7月末。大好きだったwebメディア「アパートメント」に入居する運びとなり、どんな連載にしようかと考えて、管理人さんとのやりとりの中で執筆内容は「娘に伝えたいわたしの内側」に決まった。

きみに伝えたい8つのことは、わたしが教えてやれる8つのことだ。
性について、命について、友達について、笑顔について、音について、美しさについて、優しさについて。
そして今回が最終回。

わたしはきみに「善く生きてほしい」と願い、これまで静かに綴ってきた。

「善く生きる」というとまるで苦難などひとつもない順風満帆な人生を指すように思うけど、わたしが望むのは決してそうじゃない。
生きていてつまずくことは避けられないから、きみはきっとつらい思いも味わうし涙も流すし挫折も経験するでしょう。

それでも立ち上がればそのたびに人生は倍々ゲームで豊かになっていく。
それをひっくるめて「善く生きる」ことだと考えている。

そしてきみに伝える最後の1つは、「名前」にすると決めていた。
きみの名前をつけたのはわたし。

きみにはお兄ちゃんがいて、彼の名前は夫婦で考えた。
けれどきみが私の体に宿った時、「もしもお腹の子の性別が女の子だったら私に名前を決めさせてほしい」と夫に懇願した。それだけはどうしても譲れなかった。

きみには絶対に絶対に自分の名前を愛する人になってほしかったから。

出産予定日の数か月前から、どう名付けるか決めていた。
だからきみが生まれた夜わたしだけは当然のようにその名で呼んだ。



名前には不思議な力が宿っている。
わたしはきみが笑って生きていけるようにとこの名前を名付けたのに蓋を開けてみるといつもきみが周りを笑わせている。

この先つらいな、しんどいな、さみしいなと感じた時は、自分の名前の意味を信じてね。
名前は「変えられない」、わたしはそれを長年ネガティブに捉えていたけど、見方を変えれば「誰にも侵害されない」ということ。
わたしがきみを想って贈ったそれは誰にも捻じ曲げられない。
名前は、古くならないお守りのようなもの。

そしていつかローマ字が読めるようになったらこの連載のすべての回のURLの末尾を見てください。さかさまから読んでみて。
いろいろと複雑そうに書いたけど、ここで伝えたかったことはたぶん、そういうことです。


長い長い文章でした。ここまで読んでくれてありがとう。
これからもわたしはお母さん。いつもそばにいます。

きみの名前は「さち」。幸せと読むのよ。


***

アパートメントでの当番ノートも最終回となりました。
お付き合いくださってありがとうございました。

ここでは2か月間、娘が撮ってくれたわたしの写真「わたしの外側」と、娘に伝えたいわたしの内面「わたしの内側」を記録しました。
だいたいいつもウキウキと書き始め、途中で一度泣きそうになるのを経て、最後にはあたたかい気持ちで「予約投稿」のボタンを押していました。

誤算だったのは、秋の始めから娘がわたしの写真を撮らなくなったことです。
この夏あんなにカメラにハマっていたのに、飽きるのが早い!わたしにそっくりです……。
そのおかげで10月の連載開始直前はハラハラと動揺したのはここだけの話。
たくさんの候補の中から「今週はどれにしようかな」と楽しみに選ぶつもりだったのに、数少ない写真から「わたしの外側」を選ぶ羽目になりました。


アルバムをめくるように過去の文章を遡ると、連載初回にこんなことを書いていました。

“これはわたしがわたしを知るための試みです。
そして、抱きしめるとも肌を撫でるとも違う、ちょっと変わった愛し方です。”

わたしはちゃんと愛せていたでしょうか。


最後になりましたが感謝を伝えさせてください。
アパートメント管理人のお一人であり連載を受諾くださった鈴木さん、当番ノート同期のみなさん、そして誰より毎週本編以上の(!)愛にまみれたレビューで併走してくれたレビュアーのteraiさん、とんちんかんな愛を目撃してくださった読み手の皆さん、心からありがとうございました。

みくりや 佐代子

みくりや 佐代子

広島在住のライター・エッセイスト。「母親らしく」を諦めた二児の母。優しさと憂いをもって書きます。好きなもの先に食べる派。
【著書】あの子は「かわいい」をむしゃむしゃ食べる(Impress QuickBooks刊)

Reviewed by
terai.yusuke

「この先つらいな、しんどいな、さみしいなと感じた時は、自分の名前の意味を信じてね。
名前は「変えられない」、わたしはそれを長年ネガティブに捉えていたけど、見方を変えれば「誰にも侵害されない」ということ」

この一節を読んで、非常に単純に、関心をしてしまった。名付け問題。難しいのは、名前をつけるのは親だけれど、それを背負う(それも一生!)のは、実の子であれ他人だということ。親にとっては責任が重く、子どもにとっては理不尽だと思いませんか。

みくりやさんと同様、僕自身もありきたりな自分の名前を好きではなかった。ありがちな字面が並んでいて、印象が薄い。個性がない。じゃあ、自分で自分の名前を考えるとしたら? と、何度か想像してみるも、どうにも浮かばない。いくつか文字にしてみても、しっくりこない。その時、ああ、名前は時間をかけてその人のものになっていくのだなと、妙に納得がいった。好きとか嫌いとかではなく、僕は自分の名前をもう手放せなくなってしまっただけなのだ。

以前、アパートメントの連載の中で「名前をつける」という記事を書いた。僕は自分の子の名前を考える時、なるべく「意味」から離れるようにしたい、という内容だ。名前に込められた親の思いなんて本来的にどうでもいいし、そんなものに縛られない方がいい考えが基本にあったからだ。子どもに名前の理由を聞かれた時はそんなことは話さず適当な理由をつけたり「かわいい響きでしょ?」なんてごまかしていたりする。

とはいえ、結局は字面に表れないだけで親の願いはムンムンだ。いい名前だったかはわからない。でも娘はどうやら気に入ってくれているようだし、すっかりその名前は彼女のものになってきている。悪くない。10年にもそう思える名前であれたら、間違いではなかったと思えるかもしれない。

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みくりやさんの当番ノート、今回ついに最終回です。
長いレビューにもお付き合いくださり、ありがとうございました。
この「レビュー」という立ち位置の文章は、アパートメント以外では見たことがありません。
あとがきでもリコメンドでもない「レビュー」。一体、なにを書けば良いんだ。

なのでレビュアーになることが決まった時、みくりやさんの素晴らしい文章について何を書くべきか、何を書いても蛇足でしかないのではないかなどと、うんうんと唸り、考えを巡らせていました。しかし、連載の初回、2週目の原稿をいただいた時、もう自分の書くべきことが自然と決まったような気がしました。

なぜって、書かれたほとんどの文章が「わかる、わかる」と頷きたくなるものだったからです。だから僕は、その「わかる」の数だけ、文章を書き連ねることにしました。「わかるよ」って言いたかったのだと思います。正解がみえない決断の連続である子育ての中で、それがどれだけ支えになるか、僕は実感しているからです。みくりやさんの文章を紹介し、共感した部分を引用しつつ、自分の話も交えて、少し大きな声で、「わかる」ということだけを書いてきました。それが僕のレビューです。

同じ時代を生きる親として、ここにある文章に触れられたこと、レビュアーを担当させて頂いたことを幸福に思います。みくりやさん、お疲れ様でした。悠平さん、ありがとうございました。長いレビューもおしまいです。それでは、また。

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