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2F/当番ノート

あの言葉の正体が優しさだと気づいてはいなかった

当番ノート 第53期

この夏、友人が1歳すぎの赤ちゃんを連れて自宅を訪れた日のことを思い出す。
驚いたのはきみが赤ちゃんを手厚くかまっていたこと。

きみは布団にもぐりこんで「どこにいるでしょう?ここよ、ここよ」と声だけで示したり、おもちゃのレジスターにプラスチックのカードを押し当てて「はい、ポイントをつけました」などとお芝居をして、初対面の赤ちゃんを大いに喜ばせた。

これまで自分より幼い子を公共の場や交通機関で見かけることがあっても関心を寄せることのなかったきみが、6歳という年齢になってあんなにも親しみを持って接しているのはとても新鮮だった。

その日の夜、わたしはきみに布団の中で話しかけた。

「今日赤ちゃんに優しくしてくれてありがとう。たくさん遊んでくれたけん、赤ちゃんもまた遊びに来てくれるよ」

するときみは満足げに微笑んでこんな不思議なことを言ったのだ。

「ママにもまた来るよ」

「え?」

「ママにも赤ちゃんがまた来るよ。大丈夫よ」

本当に驚いた。わたしには一度も、だれにも、話していなかった秘密があった。

その夜きみが眠った後、わたしは冷蔵庫からいつものように缶チューハイを取り出そうとして、やめた。
そして一人でパソコンを開き、残した仕事を片付けながらこの夏初めてしゃくりあげて泣いた。

優しさを見たことがない。優しさの色、形、温度を目で見たことがない。けれど優しさを知っている。

わたしが20歳のとき、とても落ち込んだ時期があった。
ある日、一緒に暮らしていた親友に「明日お昼どうする?」と言われた。当時の記憶は曖昧なのだけど「翌日は一緒にランチに行こう、行くお店は明日の朝決めよう」ということになった。

とはいえ片田舎の学園都市に店選びで悩むほどの選択肢はなくて、たぶん近所の洒落たパスタ屋さんか、無愛想なおじさんが一人でやっているお好み焼き屋さんのどちらかだろうなと見当はついていた。

その夜、ふと「いま消えちゃってもいいな」と思った。
そんなことを思ったのは生まれてからただの一度もなかった。

死にたいとか終わりにしたいというよりは「今わたしが消えてなくなったら最初から何も起きなかったことになるんじゃないか」と、そんなふうに考えた。


いま消えちゃってもいいな。
でも明日のお昼、約束したしな。


その時、わたしの心に浮かんだのは翌日のランチの約束だった。
お店も時間も決めていないけど、明日遅く目覚める頃には隣の部屋から「起きた?」とメールが来るだろう。

真っ暗な自室の真ん中に寝転んで、「やっぱり消えるのは今日じゃないかも」と思った。
そしてその日から今まで命が続いている。



心が綱渡りのようにギリギリのバランスを保っていて、あの夜もし不意に右にぐらりとしていたら、わたしは本当に消えてしまっていたんじゃないかと思う。

それでも生きた。人には未来への夢や希望がなくたって翌日のランチという些細な約束で生かされることもあるのだ。

優しさは、光る。静かにひっそりと。
わたしを生かした「明日お昼どうする?」のあの言葉は今もなお記憶の中で光っている。

娘へ。優しさは人の命を繋ぐのに必要不可欠なのだけど、その性質には注意が必要です。

本当の優しさは、瞬時に心救われる場合よりも、その日その時に気づくことができない場合の方が多い。
何年も経ってからある時ふと、朝ごはんの最中や自宅への帰り道などの何気ない場面で「あ、あれは優しさだったんだ」と知る、そんな優しさもある。

だから、つまずいたり戸惑ったりしないように2つ、教えます。

まず、優しさを受け取った時。どれだけタイムラグがあってもいいから必ず感謝を伝えること。
遅すぎるということはないよ。わたしもずいぶんと時が経つまで、友人のあの言葉の正体が優しさだと気づいてはいなかった。
優しさに気づいた時は「今更なんだけどあの時はありがとう」と相手に伝えてね。
そうしてやっと優しさは循環するみたい。


もうひとつ、優しさを渡す時。相手がすぐに気づかないかもしれないことを念頭に置いてほしい。
それを知らないと、素早いリアクションが返ってこなくてヤキモキしたり見返りを求めたりしてしまう。
「いつか伝わるように」と信じて、贈った後は忘れるくらいがちょうどいい。

実は、わたしもきみに対してそうしている。
こうして共有する時間は有限だから今のうちにたくさんの優しさの種を蒔いている。
時間をかけてその種が芽吹いたときに何気ない生活の中でふと気づいてくれますように、と願いながら。

冒頭の話には続きがあって、きみが赤ちゃんに親切にしてくれたことを翌日保育園の先生に話すと、先生は驚かず「いつもそうですよ」とあっさり言った。

どうやらきみはとっくに、わたしの知る「末っ子」のきみではなくなっていたらしい。
置いていかれたような焦燥感とそれ以上の感嘆があふれて胸がいっぱいになった。

あの夏の、わたしの秘密。
きみはその真実を知ってか知らずか、ひとつの命が消えたわたしのおなかにまとわりつくように抱きついて、優しさをくれた。
それによってやっと泣くことができた。

いつの間にどこで優しさを身につけたのだろう。きみは誰にも気づかれないほどひっそりと、そしてとてつもないスピードで変化している。
その変化を成長と呼ぶことに大きな喜びと少しの物哀しさがある。


赤ちゃんは生まれる前に、親を空の上から見つけるのだと聞いたことがある。
広い世界を見下ろして「あのお母さんがいい!」と選ぶらしい。

大人になってからの方がファンタジーを笑わなくなった。人の優しさが灯りとなって、空の上の赤ちゃんに「ここよ、ここよ」と知らせているのかもしれないと本気で思っている。

わたしたちの家にも赤ちゃんが、いたらいいのにね。きみの妹ならどれほど幸せだろうね。

あの夜わたしを思い切り泣かせてくれたきみ。優しさをありがとう。わたしたちの赤ちゃんはまた来るよ。
きみのようなまぶしいお姉ちゃんがいて、空から見つけられないはずがない。

みくりや 佐代子

みくりや 佐代子

広島在住のライター・エッセイスト。「母親らしく」を諦めた二児の母。優しさと憂いをもって書きます。好きなもの先に食べる派。
【著書】あの子は「かわいい」をむしゃむしゃ食べる(Impress QuickBooks刊)

Reviewed by
terai.yusuke

子どもは当たり前に生まれてくるもの。というのが、妻とともに初めての出産を経験するまでの、僕の浅はかな考えだった。もちろん両親の不妊や母体の健康上のリスクなどがあることは知っていた。知っていたが全く理解は出来ていなかった。どこか遠くの現実だと認識していたのだろう。

初めての出産は幸いなことに「安産」と呼べるものになった。しかし、予定日よりは10日以上も遅れ、分娩室に入ってからは24時間以上の時間をそこで過ごすことになった。産み落とされたばかりの赤子を抱いた時、奇跡だと思った。新たな命が生まれてくるまでの過程に、確実なことなど何ひとつとして無かったのだ。

「ママにも赤ちゃんがまた来るよ。大丈夫よ」

みくりやさんにかけたその言葉がどれだけ染み入るものだったか、娘さんは知らないだろう。きっと、長らく知ることもない。それどころか、言葉をかけたことすら、もう忘れているかもしれない。子どもが産まれることを、その過程を知らないからこその言葉。何の気のない、ただ口からこぼれただけの言葉。その軽さが、人を生かすこともある。

みくりやさんの当番ノート更新です。「優しさについて」

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