紫水晶の夜

第8期(2013年4月-5月)

 目が見えない人が見える人の世界を想像しがたいように、耳が聞こえる人が聞こえない人の世界を知りがたいように、痛みを知らない人が、他者の痛みを想像するのは、宇宙の外側、死者の国を想像するよりも難しい。
 
 北の小さな港町で、生まれ故郷を喪失しながら祖母は育った。町いちばんの美しい男のもとにうまれた彼女は、他の子たちとはあきらかに異なる風貌をしていた。大きな二重の瞳、高い鼻梁、ばら色の頬、こどもたちが木綿をはおり泥だらけの下駄をはいて走り回っている中、舶来もののワンピースと靴をはいて町を歩いた。

 異人の子、異人の子、港町の誰もが少女を指してこう呼んだ。ものめずらしさに近づいた人々は、去っていった。彼女はこの港町でうまれ、そして日々、疎外されていった。都の女学校に入学するときには、家族のほかに話せる者はもう誰もいなかった。

 認められる必要はない、わたしはわたしを認めるのだから。祖母は心に炎を放った。みずからを守るために、近づく者を焼きはらう炎だった。赤く、青く、炎は揺れ、彼女の心を食らい燃えさかった。

 
 都についたとき、その気丈さと美しさで、彼女はまたたくまに有名になった。女たちは彼女を女帝として認め、男たちは不可侵のマドンナとして崇めた。

 そうしてはじめて、祖母は世界の中心に立った。幼いころから敵対の目を向けられて育った祖母は、人の何倍も、他社からの目線に敏感だった。その天才的な勘を駆使して、人々の中心にいながら、誰からも恨まれないようにふるまった。

 外の世界では、ただ笑っていればよかった。笑えば笑うだけ、彼女の頭上には賞賛の花びらが舞い、激情の協奏曲が鳴り響いた。もはや、他者からの理解など、求める必要はなかった。母親ゆずりの白くほっそりした手をあおぐだけで、惜しみない好意と、彼女の耳を楽しませる話題が、彼女の足元にかしづいた。

 理解などいらぬ。共感など知らぬ。めったに家へ帰らず地元で女をつくる父のこと、家庭をあきらめて商売につくす母のことを知られたら、この地位は失われるかもしれなかった。家の秘密は、どこまでも隠しとおした。自分のことに話が向くと、こぼれるような笑みを浮かべて、他人のうわさにすりかえた。

 あの人にはいい人がいるらしいわ。うそよ、あの人からの手紙は捨てたといっていた。じゃあ、地元に残したいいなずけは、どうなるの。お父さまが気に入らないって話だったじゃない。それが違うのよ、ちゃんと本人から聞いたんだから。いまから本当のことを話してあげる。

 誰かの人生の断片にまみれていながら、そのどれにも興味を持てず、彼女はひとり、難破船の舳先のように、他人の断片の砂山にしらじらと突きささっていた。体の芯をつらぬく紫の燠火は、若き日よりさらに暗く黒く、おのれと他者を焼いた灰を飲みこんで延焼しつづけた。

 戦争が終わったころ、何人もの恋人と求婚者をすべてはねのけ、祖母は祖父と結婚した。男は、包丁を振り回す母を恐れぬ女を望み、女は、彼女の炎に耐えられる将来有望な男を望んでいた。ふたりとも、尋常でない親を持ち、その痛みを誰ともわかちあえずにいた。彼らはお互い、この世でただひとりの理解者だった。

 
 そうして、他者からの理解を求めずに育った男女のあいだに、ふたりの娘ができた。ひとりは母に似て気が強く意見をはっきりいう娘、十歳下のもうひとりは人との争いを避けて調和を望む娘で、ふたりとも美術にたいする情熱と才能を持っていた。

 数十年後、ひとりは自分の正気を保つために家から逃げ出し、もうひとりは家にとどまり正気を失った。

 
 どこかに分岐点があったのかもしれないし、すべては祖母が赤い靴をはいた異人の子だったころから決まっていたのかもしれない。人から理解されず、理解することもされることもあきらめた女は、母となってからも同じようにふるまった。同じようにしか、ふるまえなかった。

 他者については、着ているものとうわさ、財産から判断した。自分たち親子もそう見られると思っていたから、外からどう見られるか、どううわさされるかにだけ、心を砕いた。娘からのプレゼントはすべて受け取るものの、価値があるものだけが残された。娘が母のために拾ってきた美しい貝がらは、病原菌がいるからと捨てた。娘が描いた絵は、教師が気に入るように描きなおさせ、自分の感性が応というまで添削をおこなった。

 心、そういうものは、どこか遠い異国の路地裏で売っているもので、彼女の王国には存在しなかった。

 
 年上の娘は、その反骨精神から、戦時中を生きた東欧の物書きのように、地下に隠れて創作を続けた。年下の娘は、ものわかりがよかったから、学校や母の前では彼らが気に入るようなすばらしい作品を作った。

 上の子は反抗的だわ、悪い友だちとつきあったせいで。それにくらべて、下の子はかわいいこと。この子は、悪いものなどいない、きれいなところで育てなければ。

 祖母の関心と教育は、年下の娘に集中した。年上の娘は野ざらしのように放置され、あるていどの精神の自由を見つけることができた。そのぶんだけ、年下の娘には期待と手間がそそがれた。女帝の城壁内に、鉄のカーテンがしかれた。性格の違いは、生活の違いとなって、たったふたりの姉妹のあいだに亀裂をうんだ。姉妹がともに手をとり、母に対抗する道はあった。だが、そうなるには、ふたりはあまりにも違いすぎ、互いに興味を持つには遅すぎた。

 年上の娘は、つかのまの自由を謳歌した。しかし、それは制限つきの自由だった。城壁の内側は、女帝の炎によってあぶられる拷問台だった。なにか不機嫌なことがあれば、祖母は娘たちに検閲と尋問をくりかえした。彼女が気にいる言葉を吐くまで、儀式は続いた。外に出なければ、足の裏はただれ、いずれ煮え死ぬことがわかっていた。

 気が狂った姑、気が狂った母に育てられた夫は、それでよかった。どれほどの言葉を投げつけても、彼らはすべてを受け流した。彼らの精神は、すでに振り切れており、足裏は痛みを感じなくなっていた。

 しかし、娘たちはそうではなかった。そうある必要もなかった。母親として守る対象であるところの娘たちにたいして、同じように、まったく同じように、祖母は応対した。だから、年上の娘は結婚した。大学院の卒業まで待てばいいと言われたが、あと一年いたら気が狂うと、本能が真っ赤に警告していた。堰を切った水のように、教授の紹介を受けて、彼女は工学生と結婚した。

 
 やがて年上の娘は、母となった。しかし、城壁の外に亡命しても、女帝はなお女帝であった。文明はそれなりに発達していたから、祖母はひまを見つけては娘に電話をかけた。

 あの男との生活はどうなの。あの男、前にわたしたちにこんなことを言ってきたのよ。なんて失礼な男。近所から、なんていわれているの。なんて思われているの。よそのことなんて知りません、わたしには関係ありません。

 知らないってあなた、そんなわけないじゃない。あなたの家のことでしょう。あなたが知らないわけがないじゃない。そういえば、あなたのこどもがこんなことをいっていたわよ、教育が悪いんじゃないの。病院に行かせなさい。うちの子はまっとうです。口を出さないでください。
 
 祖母は問い続けた。彼女が満足するまで続けた。彼女が飽きるまで続けた。彼女が望む答えを得るまで続けた。親子の会話ではなく、尋問であった。どんなに嫌だと言われても、その話はしたくないといわれても、まるで言葉は届かなかった。娘から満足のいく回答が得られないとわかると、祖母は孫に花のような笑顔を向けた。

 お父さんとお母さんは仲がいいのかしら。どういう話をしているのかしら。こんなことを皆がいっているけど、実際はどうなのかしら。悪い夜遊びをしているんじゃないかしら。変な会話を聞いたおぼえはないかしら。本当のことを教えて。わたしが知りたい、わたしが本当だと思うことを教えて。わたしの暇つぶしになって。

 
 母に電話をかけていないとき、祖母は母の妹に同じ問いを繰り返していた。心の機微に敏感な母の妹は、母のようにはっきりとものをいう性質ではなかった。嫌なものは嫌だという母ですら、言葉がつうじないと知って逃げ出した相手だ。嫌なものを嫌だと言えない人、人の痛みを自分の痛みのように感じる人にとっては、どんなささいな言葉でも凶器となりうるが、祖母はそのことを知らなかった。

 そうして、母の妹の心は煮えていった。年上の娘のように母から逃げることは考えなかった。優しいその性質が、彼女の両足を燃える鉄板に縫いつけた。

 しだいに口答えするようになる年下の娘を見て、祖母はさらに尋問を強めた。昔はそうじゃなかったのに、どうしてそんな口を聞くようになったの。あの悪い友達のせいね。恋人はいるの。別れなさい。あなたに悪影響を与える。結婚しなさい。世間になんと言われるか。

 母の妹が泣きながら訴えても、もうやめてと懇願しても、祖母にとって彼女の言葉は鳥の鳴き声、亡霊のささやき、曇天の海鳴りであった。自分のことを話せないなんておかしい、隠しているにちがいない、もっと強く詰めよって話させなければならない。それ以外の可能性は、考えられなかった。

 人は、おのれの心にないものを、他人の中に見ることはできない。心の痛みを知らない祖母が見る世界で、母の痛みは、母の妹の痛みは存在しなかった。
 
 母の妹が、黒い男たちによる襲撃を幻視するあの夏まで、尋問は繰り返された。ようやく、娘の心が壊れたことを知ると、祖母はうってかわって、おびえたように口をつぐんだ。ただ、薄暗い部屋の中から、娘が外に出ないことを望んだ。愛人をつくった曾祖父のように、家を捨てて商売をしていた曾祖母のように、彼女を人の目から隠そうとした。

 自分が幼いころに知らなかった「家族」というものを築くため、祖母は堅牢な城壁を組み上げた。すべての力を振り切って城壁を築き、念入りに巡回したすえ、ふと後ろを振りかえれば、そこはもう焦土だった。

 
 祖母は娘たちを理解せず、母は妹を理解せず、妹は母を理解しなかった。祖母は、狂っていなければ生き残れない凄惨な王国をつくりあげた。城壁は厚く、その中で正気は塗りこめられ、煮えたぎり、焼き尽くされた。

 敵か、味方か。つぶすか、つぶされるか。祖母の世界では、人と人の関係は二次元で、コインの表裏のように単純だった。だが、世界はそんなに浅はかではない。

 かつて、心ない人々から言葉の石を投げ続けられた少女は、誰よりも痛みに涙する人になったかもしれなかった。おのれを守るために燃やしたは炎が彼女の心を飲みつくし、天まで燃えあがらなければ、あるいは違った道があったかもしれなかった。

 だが、王国はついえた。焦土に残る者は、もう誰もいない。城壁内の窓は、痛覚を失ったこぶしによって木っ端微塵に打ち砕かれ、粉々になったガラスの破片が月明かりに照らされて、水晶のようにきらめいているばかり。

 かつて女帝の座があったところには、暗く大きい井戸がぽかりと穴をあけている。祖母が信じたコインを落としても、反響の音は聞こえず、ただ、暗く、深く、どこまでも落ちる虚ろが漠と口をひらいている。