みみこちゃんの恋人たち(5)

第12期(2013年12月-2014年1月)

窓から差し込む光に紅が混じっていることに気が付いたのは、
二人の着席している机に、それが反射していたからです。
静かに次のノックの音を待っていたみみこちゃんは
プイと顔を背けたままのねこたくんの横顔について、
気が付いたことがあるのですが、声に出そうかと躊躇っている内に扉が大きく鳴きました。

ドンドン

「よ」
軽く片手を上げて挨拶をする彼の姿は絡み合った糸を瞬時に解すように朗らかで、
みみこちゃんがよく見知った笑顔でした。
「こんにちは、ひろくん」
みみこちゃんが挨拶を返すより先に、
ねこたくんはみみこちゃんが当時彼を呼んでいた呼び名のまま、
席へと促し、テキパキと面談の準備をはじめていきます。
どうやら、未だ機嫌は良くないようです。

「凄い良い雰囲気の部屋だね」
大正時代から残る建物を、時代の趣を残しつつリフォームしたこのアパートメントを
彼はいたく気に入ったらしく、椅子に腰掛けながら部屋の隅々を見渡していす。
そういえば、当時みみこちゃんが一度だけ遊びに行った彼の部屋も
似たような雰囲気の、木の薫りが強く残るアパートメントでした。

「二人の出会いはみみこちゃんが二十八歳の時、交際期間は十ヶ月で間違いないですか」
粛々と進行していくねこたくんの声に、彼は少し萎縮して
「は、はい」
と声を上擦らせました。どうやら、こういう雰囲気が苦手の様子です。
「手元の書類には【複数交際】と記されているのですが、これはどういった意味でしょう」
ねこたくんの眼光がギラリと光ります。
「それは、私が浮気相手だったってことなの」
驚いたように、ねこたくんはただでさえ人より広い白目の幅を更に広げ、
まるで本物の猫の様な瞳を持って、みみこちゃんに向き直りました。
じわりじわりと翳りゆく部屋へ差し込む残り灯がねこたくんの顔を染め、怒っているようにも見えました。

「本命の彼女が居た、ってことですか」
「う、うん、一緒に住んでました」
だから二人で会う時はいつもみみこちゃんの部屋でした。
片道二時間以上かかる距離にも関わらず、毎週のように訪れてくれる彼に
その時確かに愛情を感じていたのです。
「そんなの、ただの都合の良い女じゃないか」
「そんなつもりは…!」
一生懸命覆い隠そうとしても、隙間から漏れてくる怒りの感情を滲ませたねこたくんの声に
彼は思わず反応しますが、それよりも大きいみみこちゃんの声が遮りました。
「いいの!私も丁度疲れていた時期だったから。私にとっても都合の良い恋だったのよ」

大きな恋を失い、いくつかの小さな恋に裏切られた暁に出会った都合の良い関係は
最初から本気にならないことが確定している、みみこちゃんにとって精神的に楽なものだったのです。

「うん、俺にとって楽しい思い出だらけの十ヶ月だったよ」
「そんなのおかしい!不純だろ!」
はじめて聞くねこたくんの怒号に、一瞬部屋の中が静まり返ります。
紅い光を招き入れる窓の外は、さらさらと木々が葉を揺らすだけで、何の音も迷い込んできません。
「そんなこと、ねこたくんに何の関係があるのよ!
 ここまで私が、何一つ持ち物を汚すこと無く生きてきたとでも思ってるの?!」
売り言葉に買い言葉、思わずみみこちゃんは立ち上がり、怒鳴り返します。
「何の関係があるのよ」と言ったものの、ねこたくんには大いに関係があるということ、
実はみみこちゃんは知っていたのですが。

「やめなよ、二人共。もう終わったことだから」
“もう終わったこと”
ねこたくんとみみこちゃんの諍いを止めようと発した彼の言葉は
二人の頭から冷たい水をぶちまけるかの如くでした。
「…そうね、終わったことだね」
みみこちゃんは少しだけ呼吸を整えると、ゆっくり椅子に座り直しました。
「…彼女は元気?」
「いや、もうあの時の彼女とは別れたよ」
あの時の彼女とは、ということはきっと今は別の彼女がいるのでしょう。
そんな気がしましたが、みみこちゃんは敢えて何も聞くことはしませんでした。
「振り返ってみると、ひろくんとの恋が今までで一番楽だった気がするね。
 私たちは傷付け合うことも、汚れ合うこともなく、お互い楽しいことしか共有し合わなかったもの」
「うん、楽しかったよ」
他の恋人たちが持つであろう、多くのゴタゴタの全てを二人は放棄していました。

「でもそれって、恋っていえるのかしら」

この季節の空は、赤い色の直ぐ後を青い闇が追いかけるように沈みます。
男性を見送る時、開けた扉から見えた空が虹色に染まっていて、みみこちゃんは思わず見惚れてしまいました。
ねこたくんはまだ少し殺気立っていて、
猫が怒ったときも確かこんな感じだよな、とみみこちゃんは考えていました。

ねこたくんがどうしてあんなに怒っていたのか、みみこちゃんは知っています。
もうすっかりみみこちゃんの身長を越す程に大きくなったねこたくんに
本当のことを話そうとみみこちゃんは口を開きます
「ねえ、ねこたくん、あなた」
「次の来訪者が来たようですよ」
気付かない間に近付いていた足音に耳をすませると、
まもなくノックの音が部屋に響きました。