あぶりだす

第13期(2014年2月-3月)

あぶりだす1
あぶりだす2
あぶりだす3
あぶりだす4
あぶりだす5
あぶりだす6
あぶりだす7
あぶりだす8
あぶりだす9
あぶりだす10
あぶりだす11
あぶりだす12

人間が見る世界はちょっとだけ何かが欠けている、と思う。
人間のからだはとても賢いから、その瞬間に必要のないものを勝手に省略してしまう。
確かに目に入った それ を
「この動作には必要がないからねえ」と、見なかったことにしてしまう。
見たい見たいと、意識していても、なかなか目にすることができない。

けれど、省略されてしまうそれは、カメラの目を借りることでフィルムに焼きつくことがある。
それもほとんどが、自分が意図していないタイミングで「そう写ってしまう」のだ。
人はそれを偶然と呼ぶ。

私の好きな写真のひとつがそんな、偶然を罠にかけたような写真だ。
それはゆらゆらとした夢見心地なものであったり、時に恐ろしい姿をしていたりする。
しかし、偶然は当然自分からは罠にかかってくれないから、簡単には見ることができない。

教わったのは2つの「あぶりだす工程」だ。

いつもの風景にレンズをかざしてみることは、見えているはずで見えていなかったものをあぶりだす行為。
幼いころに教わった、紙と果物を使った遊びのように。炎の代わりはカメラがつとめる。
真っ白な紙は、光と4つの水によって、粒子の一粒一粒をあぶりだす。

2つのあぶりだす工程を経て、やっとこの目と手でそれを捕まえることができる。

大切なことはこの現象が写真においてだけではなく、私の日常で多々発生しているのではないかということである。

いつも聞き流している歌。気付かなかった小学校の廊下の香り。当たり前に口にしていた母の味。
そばに居てくれる誰かの思い。人を導く何かの力。

まだ気づかぬ一つ一つを目にすることができたらば、感じられたらば、どんな気持ちになるだろうか。
感動があったり、喜びや感謝の気持ちが湧いてきたり、絶望も時にはするのかもしれない。
その瞬間を求めて、不器用ながら私はまた、何かをあぶりだそうと藻掻くのだ。

かみはらえみと申します。

1月のはじめ、管理人の森山良太さんからこのアパートメントに住まう上でのちょっとした要望をいただきました。
いくつかあった要望を聞いて感じたのは、私が求める(良しとする)私と、
良太さんが求める私、は全く違うものなのだな、ということです。
分かりきっていたことでありながら改めてそれを実感し、少しさみしくなりました。が、同時に、
多分これは、私の気づいていない 何か を見えるようにするチャンスなのかもしれない、と思いました。

どこまで添うことができるかは分かりません。
ですが、その時いただいた要望のひとつひとつは、私にカメラの目のようなものを与え、
生身の私だけでは見ることのできなかったものを見せてくれる、と信じています。

やれること、やりたいことを精一杯行います。2ヶ月間、よろしくお願いいたします。