無価値なものを生み出すのは無意味なことか

第20期(2015年4月-5月)

 じつは夫のためだけに絵日記を描いている。最初は旅先でナプキンに似顔絵を描く程度だったものを、旅の終わりに日記帳を購入し、帰宅後も日課として描くようになった。この春で結婚3年目、日記はすでに2冊目の半ば。

 夫は非常にマメな性格で、毎日毎日、同じ時刻に起床して同じメニューの朝食を摂り、同じリズムで同じ生活を繰り返すことを厭わない。一方の私は何をしても三日坊主で、気の向くままにその日暮らし、何かに没頭すると寝食も忘れてしまう。几帳面な夫がズボラな妻に振り回される精神的負担は計り知れない。アリとキリギリスのようなペアである。

 せめてもの罪滅ぼしに、私は共同生活の記録をしたためる。「毎日欠かさず」と掲げた目標が一週間と続いたためしはないが、この絵日記だけは例外だ。夫が毎朝毎夕、私にはない几帳面さで催促してくれるおかげだろう。そうやって習慣化されて初めて、今までなぜ他が継続できなかったのか、その原因にも行き当たる。鍵付きの日記帳や非公開ブログなど、自分の他に読み手がいないところでは、私はまったく何も書けず、何一つ完成させられないのだ。誰かに見られていることが、最大のモチベーションになる。100万人や10億人でなくともいい。たった1人でいい。

 内容はすこぶるくだらない、モーツァルトの遺した書簡みたいな代物で、しかも私は天才音楽家ではない。我々夫婦がもし突然いっぺんに死ぬようなことがあれば、こんなものが我々の「遺稿」になるのかよ……と目の前が暗くなる。それでもやっぱり、一日も休まず描く日記は私に強固な自信をもたらす。何度も何度も読み返しては、俺は天才か、とニヤニヤする。私が作るものすべてに社会的価値が生じるわけではない。しかし、何も作らずにいたら生じなかったはずの価値が、夫しか読まない絵日記の中にも、たしかに息づいている。

 これは幼子のいる家庭などではありふれた光景だろう。我が子をあやすためだけに作曲された鼻歌。愛犬を主人公に作られた物語絵本や、親戚に近況を知らせるために発行される壁新聞。この地球上でたった一つの子供部屋にだけプレゼントを届けに来るサンタクロースからの置き手紙。ほんの数人の間でだけ通じるジャーゴンや冗談。目の前にいる誰かのためだけに無から生み出された有。換金不可能な値打ちのあるもの。そうしたささやかな産物は、何かを買ったり売ったりする営みから離れ、時に、不特定多数の目にふれるどんな作品よりも大きな意味を持つ。

 私が原稿を仕上げられずに呻吟していると、傍らの夫はいつも「あの絵日記くらいの気軽さで書けばいいんだよー」と笑う。それができれば苦労はないよ、と睨み返すわけだが、本当はそれが本当だ。仕事、すなわち、あらかじめ他者から価値を定められている枠組みの中で生み出されるものには、どうしても不自由がつきまとう。その枠組みに縛られていなければ新しいものが創り出せないと、何かのプロは、そんな意識に囚われがちである。

 でも、無から有を生み出すというだけなら、じつは誰でもできる。毎日できる。子供でもできる。キリギリスには難儀だが、アリとならできる。それが不毛なことのように思えるのなら、枠組みをちょっとズラしてみればよい。ニヤニヤが止まらなくなるまで無意味なものを作り、書き、歌い、寝食忘れて没頭してみるのも一興。誰か一人に見せたなら、価値は後からついてくる、かもしれない。

(つづく)