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2F/当番ノート

どうして彼らは「お金」を払いたがらないのか

当番ノート 第20期

 学生からの依頼に応えて、インタビューなどを受ける機会がある。彼らは決まって「お金がないので、ギャラは払えない」と言う。そのくせ、実際には待ち合わせた喫茶店の代金をもとうとしたり、菓子折りを持参してきたりする。だから私は、いつもその場で彼らを怒る羽目になる。

 タダ働きをさせることについて申し訳ない気持ちが少しでもあるのなら、本来あるまじきことだと思っているのなら、私にギャラを払ってほしい。こう言うと彼らは決まって身を竦めるのだが、構わずに続ける。それが「対価」でさえあれば、値段は、100円だっていいんだよ。

 喫茶代やお菓子代に回すお金が何千円と出せるなら、それを学生新聞や研究サークルの「経費」で落とせるのなら、その十分の一でいい、ギャランティを捻出してほしい。その上で、「あなたにギャラを払ってしまったから、もうお金がない」と言えばいい。訪ねてきた全員分のお茶くらい、いくらでも奢ってあげよう。だって私は、君たちと違ってお金がある、大人なんだから!

 裕福な家庭で親にきちんと躾けられたのだろう、菓子折り持参の学生はみんな「つまらないものですが」とか言うのだが、それはつまり、その子が自腹を切ったという意味である。サークルの予算は下りないが、僕が私が個人的にあなたに出費します、というわけだ。のび太のくせに、なまいきだ。そんな自己満足の茶番に私を巻き込まないでほしい。

 たとえば学生新聞の部員が、誰かに取材するたび相手にお菓子を買っていたら、毎月幾らになるだろう。なぜその分を部費として徴収し、「謝礼」の予算を組まないのか。「あわよくばノーギャラで協力してほしい」というナメた態度も、「組織の不手際を穴埋めしたければ歯車である個人が自腹を切るべし」というブラックな不文律も、それが「仕事ゴッコ」だと思ってやっているのなら、やめちまえ、と思う。仮にも将来、社会の木鐸たらんと志す学生集団ならば尚更だ。

 たとえば、この「アパートメント」の管理人たちが、「いやー、このたびはタダ原稿をありがとうございました。これは私からのほんの気持ちです」と、個人的にこっそり「山吹色の菓子」を渡してきたら、と想像してみてほしい。嫌悪感しかない。この連載のコンセプトまで踏みにじられた気分になる。少なくとも私は、「やったー、儲け儲け」とそれを受け取る大人にはなりたくない。

 「お金がないから、払えない」「僕たちだって、無償で働いている」そんな物言いをふりかざしてあれこれ頼みごとをする人たちは、もう一度、自分の足元をよく確かめてみてほしい。お金はきっとある。払わないだけだ。驚くべきことに、早起きして作ったというお手製クッキーをもらったことさえある。でも、素敵なティータイムも、おいしい焼き菓子も、手編みのマフラーも、その他すべての心遣いも、本当はいっさい要らない。あなたがたがそれを妥当と判断したなら、10円だっていい。「対価」を払ってくれたって死にはしないだろう。新しい小麦粉とバターを買うより安い。

 呼び出された私が支払う「貴重なお時間」ばかり気にしていないで、あなたがたが余裕で支払えるはずなのになぜか頑なに支払おうとしない「対価」のことを、もう一度、考えてみてほしい。私だって、あなたがたに興味を持ったからこそ、時間を作って会う約束をしたのだ。お茶なんて、いくらでもご馳走しよう。私からの「ほんの気持ち」である。

(つづく)

岡田 育

岡田 育

文筆家。1980年東京生まれ。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』『天国飯と地獄耳』、共著に『オトコのカラダはキモチいい』。私は普通の人間です。

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