フランスと花〜fleur.

第22期(2015年8月-9月)

Fleur:花。女性名詞。語源はラテン語のflos。「最上の部分、最も良い部分」を指す言葉です。

しかし「最上の状態」は永遠ではない。つぼみがほころび、花開き、うなだれ、朽ちていく。
人々は洋の東西を問わず、花の最上の姿を留めようとしてきたようだ。

福田平八郎、初期の作品。「牡丹」1924。
普段のモダンにグラフィカルな福田のイメージとはほど遠い、京都で妖しげな日本画が流行していた頃の作品。
宋・元スタイルの影響が強い。絵そのものが発光しているよう。
福田平八郎
大画面を覆う、妖艶な牡丹。明日には薄らいでいるかもしれない盛大な色香。描きつけられ、永遠になる。

熟れた花々は、失われる直前の美。夢うつつの裏彩色。
咲き誇った後は、ただ静かに、安らかに、死に向かうのです。
何を観ても、何に触れても、表面の美しさと魂の奥深くに眠る情念には呑まれても良いと思っているのに、その間の生々しさは苦手という不思議。

菱田春草の「雨中牡丹」1907。
ここにも、花だけでなく、その空間全体の最上の部分が、描きだされている。

岡倉天心の秘蔵っ子だった菱田春草。
ただ目前の草木を描くのではなく、対象の魂の最も美しい部分、花や空気のイデアのようなものを汲み取って描く人。
菱田春草
雨粒が光る、梅雨のワンシーン。
容赦のない夏が、雨のひっそりとした静けさを奪い去っていく前に。

Henri Fantin-Latourの薔薇は、零れ落ちる寸前の、枯れゆく花の美しさをしっかりと留めている。”Bouquet de Roses” 1885。
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そして、こうしたナイーブさとは打って変わって、安井曾太郎の「薔薇」は、生も死も全開。うねるようなブーケ。
ぐわりとした線が、時間を止めて、主張する。1932。
安井曾太郎
薔薇そのものの形態の面白さに興味を持ち、「déformation(変形・強調)」を追求している。傾くことで保たれる均衡。

薔薇というのは、やはり花の女王なのかもしれない。
それは、フランスの庭師の言葉”langage des jardiniers”からも伺える。
一般的に、「花が枯れる」という動詞は”creuver”。これは、動物がのたれ死ぬ、というときに使われる言葉.あまり、愛がない。
けれども、薔薇に対してだけは、”mourir”。人の死と同じ動詞を用いる。

薔薇は、のたれ死んだりしない。気高く散っていくのだ。
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(私の部屋の薔薇。母の絵の前で。)

花についての詩。
北原白秋の詩で、忘れられないものがある。

薔薇ノ木ニ
薔薇ノ花サク
ナニゴトノ不思議ナケレド

姦通罪に問われ、自殺を試み、それでも生きると決めた白秋29歳。新たな目で切り取られた世界。
この三行詩の、どこまでも削ぎ落とされた、純朴で自由なところが好き。
細かい描写がない分、読者の目の前には各々が思い描く理想の薔薇、思い出の薔薇が、すっくと立ち上がる。

ひとの認識というのは、その人の人生によって形成されるものなので、
ひとは自分に属したものしか思い描けないし、自分と相通じるものしか目の前の対象から取り出すことはできない。
昔、江國香織さんが「人は自分の人生を身体の中に携えて生きている」と書いていた。
自分の人生で出逢ったものたち、もともと自分の内部に潜んでいた性質のものたちをもとに、世界を広げていく。

この三行詩には、そういった人間の内的自由や、想像の翼、読書に際して世界から己を疎外する、余白の豊かさがある。総ての読み手が、自分の中の薔薇を、思い描けるように。

(ちなみに、これより5年ほど前の詩「紐」では、薔薇という漢字に「さうび」とわざわざルビが振られ、若き叙情性が突き抜けた突き抜けた詩となっている。)

paris roses
(パリのマレ区。一番好きなセレクトショップに臨時併設されていたお花屋さんで。)

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フランスで育ったせいか、母が欠かさず生けていたせいか、花はとても身近で親しい存在。
ないと落ち着かないので、旅行中でも欠かさず買う。
留学中は、サルトルとボーヴォワールのお墓の前に住んでいて、徒歩1分の花屋さん(驚くほど安くてセンスがよくて気取らない)とは仲良しだった。

昔から、花は自分の体調及び精神状態のバロメーターになっていて。
お花屋さんで買う切り花の平均的な寿命は、おおよそ1週間〜10日だと思うのですが、
自分の調子が良いときは、軽く2週間、長いと20日くらいもったりする。
逆に具合の悪いときは、いくら水切りをしても、水を替えても、声がけしても、栄養剤を与えても、涼しい場所に置き換えても、元気がなくて、すぐに終わってしまうのだ。
きっと私の肌から、目には見えない淀んだ悪い気が噴出、部屋中に立ちこめているのだろうと思う。
そんな風に、自分と花がリンクして生きているので、花の様子が自分のバロメーターになっている。お花さまさまであるよ。
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芍薬
芍薬2
(芍薬の花びらは、こんもり散る。散るというか、落ちる。部屋に帰ってきたら、やわらかいかたまりになっていた。)

部屋に生ける花を選ぶ上で、賑やかなものと、静かなものがあることに気づく。
西洋の花は饒舌で、
東洋の花は寡黙。
胡蝶蘭
(いただきものの胡蝶蘭は、なかなかの過剰さを発揮していた。)

華道家の中川幸夫さんは、3年前の桜の季節に亡くなった方で、生花界のアバンギャルド寵児というか、伝統芸能500年の歴史をどがえしするような(日本庭園のモダン史を切り開いた重森三玲に太鼓判を押された)存在だった。
グレングールドみたいな人。
花の深層には得体のしれないものが潜んでいて、中川幸夫の手にかかると、宇宙と同義の花々の力が、火花を散らしながら眼前に現れる。そんな、地獄の火を見るような、大気の精霊を見るような、鬼気迫る美しさで人を圧倒する花を生け続けた人。(だと私は思っている)
桜2
(桜は、ガクの紫蘇色が美しい。)

そんな彼のことを調べていたら、いつか自分もやってみたいと思う、酔狂で気違い染みてて心底贅沢な企画を見つけた。

1995年くらいに、中川幸夫と写真家荒木経惟の2人の亡き妻をしのび、ムサビの教授でデザインジャーナリストでもあるスーパーウーマン、森本明子さん宅で4月4日、「四・四の会」(死・死の会)と称して桜の会を催すことになったらしい。
要は、家の中で花見をやろーよ!という無精で贅沢で非常識な催しだった。最高だね。

東京近辺では桜はもう終わってしまっていて、わざわざ福島県から空輸されたいう桜は、中川幸夫の手によって、障子の開き戸の下にしつらえられた竹垣からコンクリートの天井まで覆い隠した。

夕方の4時くらいから客人家主共にお酒を楽しみ、いい感じに出来上がってきたところで、室内の熱気に反応し、生けられたときは蕾だった桜が開き始め、みるみる極小の空間に花の精気を発散させたという。

それに便乗して荒木経惟がシャッターを切り始め、やっていることはお祭り騒ぎなんだけど、当時最高の生花を、また同じくらいの天才がフレームに収めるということや、周りにいる方々も業界関係者の中では一目置かれる人たちばかりというものあってか、勝手に高尚な催しになった感が否めず、とても愉しくて美しくて酔いしれる夜だったそうです。

更には、同じような催しを秋、紅葉の季節にもやったそう。上にも下にも真っ赤な紅葉を敷き詰めて。外と内の境界が消える瞬間というのは、くらくらするほど、血がたぎる。
花乱舞、という言葉が合う世界は、自分を人間という枠から解放してくれる気がする。

夜桜
(ポップコーンのように薄墨色の空に舞う桜や、深紫と深緑を混ぜたような太い枝たち。最近、銀座に移転が決まり、茅場町のほうは閉店となった森岡書店の前。失われゆく桜の処女性。)

そして。
夏の空に散る花。
空を燃やす花。
風と光とがざわざわ。心の鼓膜をはりさくような破裂音と共に。

花火

東京湾の花火大会は、今年で最後らしい。オリンピック村の準備が関係しているとか。
消え入る花。束の間の。
これらの写真も、追憶のひとこまと、なるのだろう。