フランスとシンプルさ〜Simplicité.

第22期(2015年8月-9月)

Simplicité:(vieilli) Honnêteté naturelle, sincérité sans détour.
シンプルであること。女性名詞。「サンプリシテ」と読む。
古フランス語には、自然に備わっている正直さ、真っ直ぐな誠実さ、という意味が含まれていた。

第9回目にして最終回である今日は、概念的なお話です。
伝わりにくいかもしれないけれども、私が最も大事にしているイメージ、一番心惹かれる状態、Simple(シンプル)であることについて。

シンプルであること。それはものに対する率直さ、よどみの無さ、つまりは誠実な態度だ。
水晶のように硬質でクリアな心の状態。
一個の中で完結していて、満ち満ちている状態。
何一つ、矛盾のない状態。
不純物を含まない状態。
そう、私は想いや思想の「純度が高い」ものが好き。

「純度の高さ」のイメージは、バーで使われる氷のように一つの完結した球体だ。
その密度故に、固さ故に、不純なものは外へ外へと押し出されていき、中心からすっきり透き通っている。
そういうものは、迷いも打算もなくて、とても誠実だと思う。

遠藤章子さん1
遠藤章子さん2
純度の高い作品というと、遠藤章子さんのガラス作品。
表参道のスパイラルで出逢った。
「どうしても欲しい」という強い想いと、「この子は手元に置いておかねば」という使命感に駆られて、購入したものだ。

静謐で、とろりとやわらかく女性的で、光と影の溜まり方がこっくりしている。
六月の、紫陽花の下の土のにおいがする。
この子を両手でそっと包むと、ガラスの冷たさが心地好く身体に伝わってきて、
無数の雨粒にも、月面の岩にも、なれるのだ。
私の大切な宝物。

人為的なものの介在が少なければ少ないほどに、
自然に近いという意味で、
純度が高い気がしている。
世界の理(ことわり)に正直で、従順。この世の始めからあったものだから、矛盾がない。
そういう意味で、自然に近いものが好きだ。安心する。

19-20世紀の詩人ポール・ヴァレリーは、美を巡る有名な対話篇《Eupalinos, ou l’architecture》で、
自分が海岸で拾ったものが、人の手によるものなのか自然の産物であるのか判然としないまま、そのシンプルなフォルムが持つ美しさ、それらを発見する驚きについて語っている。
装飾を放棄し、世界の法則に則って存在するものは、それ一個で完結した完全なる形だ。
例えば、ル・コルビュジエが、浜辺で拾ってきた石のコレクションは、
観る度に、その滑らかさ、無駄のなさ、それだけで存在できる気高さに、心打たれる。
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(ル・コルビュジエの海辺で拾ったものコレクション。)

そこら辺の石ひとつとっても、美しさを見出すのは、その人自身なのだ。
心がざわついていては見えてこない美がある。
ものの奥底にある美を見出す為の、そこにアクセスする為の、心のコンディション。
あるいは、それを可能にする環境。
そこに宿るものが、シンプルさだ。

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オディロン・ルドン 「神秘の語らい」(年代不明)

シンプルさは、過剰さと対極にある。
光や色彩、音の氾濫から遠ざかること。

影の中にいると、心が穏やかに研ぎすまされる。
太陽の眩しさに霞んでいたものが、
大きな音にかき消されていたものが、
その色形を取り戻していく。
そういう、ひんやりとした感じの絵を、私は知っている。
ルドンのパステル画。心の火照りがすぅっと引いていく感じ。
作品の前に立つと、心が透き通った水の底に沈んでいく。
ひとり、朝の薄暗い部屋の中にいるようだ。

羊羹
谷崎潤一郎は「陰翳礼讃」で、羊羹についてこう語っている。
「羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお冥想的になる。人はあの冷たく滑らかなものを口中にふくむ時、恰も室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。」

ここで羊羹を甘美なものにするのは、光や色彩の氾濫の中で摩耗した感覚の復活だ。
過剰さは人の感覚を疲弊させ、鈍らせる。だから、時には五感に届くあらゆるもののボリュームを絞ってやる必要があるのだ。

高校の時、夜の井の頭公園を歩きながら発見したのは、闇が持つ色彩の豊かさだった。
夜=黒ではないということ。
木々は、紫や焦げ茶、モスグリーンや赤、様々な色を持っていて、
空も薄墨色であったり、発光した濃紺だったりした。
沈みゆく光の中でこそ、見えてくる色があることを知った。
モネ
それこそ、モネは夜でも決して黒を使わない。自然の中に溢れている色彩を、忠実に一色一色、拾い上げて、描く。

Simplicitéを促す音。

「音で空間を彫刻したい」という畑中正人さん、最初のアルバム “House of Voice”より。
いつの間にか雨が降ってきて、砂時計のように、心に静けさが戻ってくる音。
多くのバレエ作品を手がけ、イッセイ・ミヤケのショーや、21_21の展示、YAMAHAのCMサウンド等、心地好いなと思う時には、驚くほどの確率で彼の音があった。

時たま、自分の中で清浄さが保てなくなるときがある。
頭の中に熱が籠り、骨の周りに溶かした鉛のような重さを感じる。
気が、身体中に滞って、ちょっとした熱中症と風邪を掛け合わせたような不調に襲われる。身体と心が濁っている状態だ。

そうして清浄さへの希求が極まってくると、自分自身の身体を、シンプルにする必要がある。
濁っているものを排出、排出、排出!とにかく中からも外からも、不要なものは全部押し出してしまいたい衝動に駆られる。
バスタブで過ごす時間には、魔法の浄化作用がある。
バスソルトはお清めの塩のつもり。
ゼラニウムの香りのお湯に、じっくりと浸って、足の先から頭のてっぺんまで、丁寧に触っていく。
ほぐして、回して、伸ばして。筋肉の一筋一筋、骨の一つ一つに清浄な酸素が行き渡るのを感じながら。

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Bonnard《Nu dans le bain》, 1936.

お風呂と言えば、ボナールのバスタブだ。
初めてパリ市立美術館で観た時、光の粒の美しさにうっとりとした。
そこに描かれているのは、親密で自由な時間。
バスルームでは、鼻歌を唄ってもいいし、うふふと微笑んでもいい。
思い切り心をゆるめて、総てから解放される。
私は、自分だけの、とても自由な時間を過ごす。

ヨガの時間も、大切。
溜まった澱みを外に出し、外界で乱された心と身体を、正しくチューニングする為に。
正しいポーズで目をつぶると、大地が身体の重みをまるっと引き受けてくれる。
心までふわり、軽くなるのだ。
エジプト
古代エジプトでは、死後の審判の際、天秤の片方に死者の心臓、もう片方に正義の女神マアトの羽を乗せるとされていた。
心臓と羽の重さが釣合えば、神の野へ行き復活の時を待つ権利を得られる。
そうでない場合は、過去に悪行を犯したとみなされ、怪物に心臓を食べられてしまうのだ。
私はいつも、心—心臓が適度な重さになるのを感じながら、ヨガをする。
存在することに、集中する。

あらゆる美しさの中でも、私は「フラジャイル」なものに目がないようだ。
フラジャイルとは、危ういもの、不安定なもの、儚いもの、か弱いもの、社会的にメジャーではないものを指す。
不安定な状態を保ち続けるだけの芯の強さ、強度を持ったものたちのことだ。

これは恐らく、その声の小ささ故に、
少しでも心が濁っていたり、気持ちが混乱のさなかにあったりすると、見落としてしまいがちな類の美しさ。
世界に散らばる、密やかな声や色、光。
小さきものにこそ、強さが宿る。鮮烈なピアニッシモだ。

そのフラジャイルを地で行くのが、ロンドンで活動中のジュエリーデザイナー、正光亜実さんの作品。
写真は数年前、初めて彼女と出逢った目黒Claska The 8th Galleryでの展示
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薄い薄い氷のようなジュエリー。
それは陽の光を受けて煌めく、3月の雪解けの様だった。
あの時の私は社会に出たばかりで、世の中でしばしば正義とされる類の「マジョリティー」や「一般的な感覚」に打ちのめされてしまって、相当参っていた。
コピー用紙の白も、雲の白も、食器の白も、全部同じ「白」でくくってしまうような世界の感覚に、自分が大切にしているものたちが踏みにじられているようで、泣きたい気持ちで日々を過ごしていた。
そんなとき、亜実さんの作品に出逢って、心の底から救われたのだった。

今にも、ぱりんと小さな音を立てて壊れてしまいそうなプラスチックの世界は、
精一杯の光を受けて、小さな身体でその美しさを主張していた。
その場にあることすら気づいてもらえず、素通りされかねないほどに密やかなものたち。
不安定で、必ずしも大多数の理解や賛同を得られない心細いところに、あえて留まる意志の強さを感じた。
じっと息をころして、見つめて、初めて心にじんわり広がる、美。
そうした凜とした強さに裏打ちされた儚きものたちを作っている人がいて、その心が、とても、とても、嬉しかったし、心強かったのだ。
今でも亜実さんは大切な友人で、いつか一緒に展示をやりたい、やらせていただきたいと思っている。

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(京都。随心院の光。)

サックス吹きの友人と銀座で珈琲を飲んでいた時に。
彼が「無音」というのはない、常にどこかで音楽が流れているのだ、静かな時は休符が並んでいるのと同義、と話していた。
世の中のありとあらゆる音がmusiqueになるということ。
私が美術について語るのと良く似ているなぁと思った。
美という概念は、高尚で手を出しにくいものという印象を持っている人が多いけれども、実際はなんでもいいしどこで触れたってかまわない。
食べ物でも花でも目の前のグラスの陰翳でもカーテンの影でも齧りかけの林檎でも、カーテンの揺らめきでも汗をかいたジョッキでも女の子の爪でも道ばたの草花でも、電車の流れる光でもスプーンのカーブでも溶けかけのアイスでも、ゆらゆらと昇っていく煙草の煙でも。
美しいものは美しいのだ。
わざわざ巨匠の作品を観に行かなければ美に触れることができない、なんていうのは大きな勘違いだ。
勿論、巨匠の作品にはそれだけの圧倒的強度があり、信念があり、執念があって、並々ならぬエネルギーをたたえているので、観るには相当な体力が要るし、
総ての美を同列に扱うのは豪快すぎるけれども、とにかく。
美しいものは日常の中にごろごろ転がっている。無造作に。
私が気づけるか気づけないか、それだけ。

何かに心打たれるというのは、インパクトに起因するものではない。
絵の値段とか、有名度とか、海外の美術館から来たとか、そういうことではないのだ。
淘汰される声。過剰なものの裏側に貼り付いて、普段は見えにくいもの。それらが顔を覗かせる瞬間がある。
現実を捉える方法が必ずしも一つでないと気づいた時、世界がぐんと愛おしくなる。
私という生き物の、本領発揮だ。

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(神戸の街壁。)

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(パリのアンティーク商の自宅で。)

人生を押し進めれば押し進めるほど、様々な組織の立場で物事を考えるようになり、
自分の基準が時として侵され、混乱していく。
「シンプルさ」は心のコンパスなのだ。
多様性を語るにはあまりにも乱雑な世の中で、自分の立ち位置を、進むべき方向性を、見失わない為に。

《あとがき》

Simplicitéというのは、このコラムを始める時に、絶対に書こうと決めていた唯一のテーマで、けれどもなかなか書けなかったテーマです。概念的だし、分かりにくいし。
それでも、どうしても、伝えたかった。一人でも多くの人に読んでもらえればと思った。私が一生大事に抱えていく、概念です。

自分の信念として「美しいものは人を優しくする」というのがあります。
美味しいものを食べて不愉快になる人はいないように、美しいものを見て、トゲトゲした心持ちになる人はいないと思っている。
美しいものに触れると人はほんの少し、優しくなれる。
世界に対して、人に対して、自分に対して。

だから、一人でも多くの人に、美しいものに触れる機会や、身の回りに溢れている豊かなものに気づくキッカケを持ってもらえたらと思っています。
そのために、ものを書いたり、イベントを開催したりを、続けていきたい。

美しいものを何一つ見逃さぬよう、心も身体も、透明度と硬度を持って生きて。生きて。

この2ヶ月、フランスシリーズをお読みいただき有難うございました。
拙い文章でしたが、お茶菓子程度に楽しんでいただけたなら幸いです。
これからも、フランスと日本、二つの文化の間で、美しいものを守っていきたいと思います。
また皆様にお会いできる日を心待ちに。

Leiko.