境界線上のネロ

第23期(2015年10月-11月)

よあけ僕は散歩が好きで、昔から暇さえあればあてもなくふらふらと道を歩き回っている。あてもなく散歩をしていると見知らぬ道を見つける。理由もなくその道を歩いてみることにする。見たことのない景色に出逢う。見たことのない家や人々の生活が目に映る。見たことのない植物や昆虫に出逢うこともある。空はいつも違う顔をしている。同じ種類の草や木や虫でも、それぞれに違う顔をしている。そんな当たり前のことを眺めるのが好きだ。

道の上で偶然出逢った人と挨拶を交わすこともある。おはようございます、今日の空は晴れやかで気持ちがいいですね、そんな他愛もない会話をしたりもする。あてもない散歩のなかで出逢うものや人々、彼らとの時間。一瞬の交差点。それはいつも、私とあなたのあいだの今この瞬間にだけ生まれるもので、一度きりの出来事の連続がそれぞれの日常というものをつくっているのだと当たり前のことを静かに確かめながら、僕は散歩を続ける。

数日前の夜にふとこんな文章をTwitterに書いた。

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〈境界線上のネロ〉
その言葉だけ ふとこのまえ浮かんで 離れずにいる ネロは谷川俊太郎の詩に出てくる死んだ犬の名前 「そして僕はやっぱり歩いてゆくだろう…すべての僕の質問に自ら答えるために」ってその詩に書いてある その言葉が未だに深く刺さって抜けないトゲ 燃える棘

燃える棘から産まれた断片たち 日の目も見ることもなかった赤ん坊たち 泣いてた自分の魂 最近ようやく泣きやんできた ネロ 俺は ネロって猫やと思う 飼ってた猫の名前はコロだったけど コロって犬みたいな名前や 犬やけど猫でもええ 生きてるし死んでる

時々コロが家に帰ってくる そんな気配を感じて えっ? コロ? てなって 辺りを見回すけどどこにもおらん コロはもう死んでる お葬式もあげた 今まで出たことないくらいでっかい涙がぼろんぼろん出てびっくりしてすこしだけ笑えてでも泣いた あいつ たまに遊びに来とるんか?

遊びにきて また帰ってく どこへ帰るんやコロ コロはコロやからなんでもええか 俺はコロにはなれんからネロになるわ ネロは犬やけど俺や 俺は犬 コロ お前はネコ んで でも たまにはとっかえたりしよや 犬と猫と交換して遊ぼうや ほいで道を歩くんよ

どんなとこだって行けるんよ どんなとこ 行きたいとこならどこだって いつにだって行けるんよ だって俺らは 生きてるし 死んでるし 人間やし 犬やし 猫やから ネロ 音の路て書いてネロや お前も俺もあいつもそこのあんたも みいんな ネロやで

音の路地裏でまあるくなってるコロ お前も一緒に行くか? 連れてったるわ そんなとこおってもつまらんやろ な だから行くで 音楽は無限や 形もないし 時間もない どこへだって行ける どんなとこへも飛んでいける あんたの耳のなかだって 星の果てへだってな

みいんなのなかのネロ 好きなとこへ歩いていけるとええなぁ
俺 恥ずかしいけど ほんまに思ってるで ほんまにそれがいい だって 生きてるんやもん 好きにしたらええやん なんであかんの 誰があかんて言うたの そんなん誰も知らんやん 言われたふりしてるだけやで

みいんなで ひとつのおっきな星の おっきな宇宙の 音楽なんやで ほんまはな みんな知らんけどな ほんまはそうなんやで 俺は知ってる だってそうなんやも 聴いたんや あの日 あの日ていつかてそんなん知らんわ いつだってええやん いつもいつかのいつかや

みいんな知らんふりしとるから コロ 俺とお前で ちと歩いてみよか 言葉っていう線路辿って 見知らぬ駅へ向かうんや そこに何があるか たのしみやな 昔のこともあるかもな 知らんこともあるかもな 全部でひとつながりで 全部 俺らの今 今ってのは永遠やでな

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「ネロ ー愛された小さな犬に」という詩に出てくる犬、ネロ。僕は19歳の時にその詩を読んでネロに出逢った。以来、ずっと僕のまんなかにネロがいる。ネロは死んだけれど、僕のなかに生きている。あの頃の僕は毎日詩を読み、毎日詩のようなものばかり書いていた。

あてもなく散歩をしながら、時々ネロのことを思い出す。そして、僕が飼っていた猫、コロのことも。コロは僕が18歳のときに死んだ。たぶん病気で死んだ。まだ7歳だった。でも、時々コロは僕のところに帰ってくる。そんな気がする。どこかで生きているような気がする。死んでいるけど生きているような気がする。僕は時々思い出す。忘れているときは生きてはいないのかもしれない。死んでいるのかどうかはわからない。ただ、思い出すときにはネロもコロも生きている。そんなふうに感じる。そして、僕はなんだかうれしくなる。

ああ、そうだ。自己紹介をしていなかった。第一回目の記事だから自己紹介をしなくちゃと思ったんだけど、僕は自己紹介というものが苦手だ。何を書けば自己紹介になるのかよくわからない。けど、下手くそなりに思いつくことを書いてみることにする。

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僕の名前は百瀬雄太です。いまの僕は27歳です。半年前まで東京都三鷹市に住んでいて、いまは岐阜県恵那市の実家に住んでいます。去年の僕は僕のことを「音楽家」と呼んでいました。「音楽家」としての仕事もしていたので「音楽家」でもあるのかもしれません。でももうそういう名前を名乗ることはやめてしまいました。小さい頃は絵を描いていました。大学生の時は弁護士になろうとしたり、いくつかの地域型アートプロジェクトを企画運営したりしていました。21歳から歌をつくりはじめました。けれど人前で歌うことは嫌いだったので自分のためだけに歌っていました。医療関係のシステムエンジニアの仕事もしていました。身体を壊してサラリーマンを辞めました。精神障害者と呼ばれるものになりました。いまは無職かフリーランスかニートと呼ばれるものでもあります。最近は、絵を描いたり小説を書いたり本を読んだり空を眺めたり、散歩道で写真を撮ったりタロット占いをしたり、踊ったり、笑ったり、個人名義のいのちの電話「聴き人」をしたり、やっぱり歌ったり奏でたり、坐禅を組んだり、ぼーっとしたりしています。最近特にがんばっていることは、毎朝飲む珈琲を美味しく淹れる練習です。あと、岐阜の野山を散歩しながら植物や動物や石や木や空や河や虫をじっくり観察しています。虫や植物はとても静かに生きたり死んだりしています。彼らの生活を眺めているのはとても面白いです。よろしくお願いします。

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僕はほんとうにいろいろなことがわからない。いろいろなことがわからないから、それをわかりたくて、その時々にいろんなことをしてきた。その時々のことは一生懸命してきたような気はする。そうしたら、いろんな道を歩いていた。いろんな道を歩きながら、いろんなかたちの人間になってきたような気がする。ひとつの人間の形をしてひとつの道を歩くことがうまくできないから、人間をやめたくなることもあった。でも、最近は観念して、ただ「人間である」と思うことにした。ただの人間として散歩をすることにした。実は昔からそうだったことに最近ようやく気づいてそれを受け容れた。それでいいやと思った。名前のない存在の軽さ、自由な海のなかを、クラゲみたいに漂うような生活をいまはしている。

この場所に何を書いていくのかいろいろ考えてみたけど、僕はネロとコロの話みたいに、散歩をすることにした。風に吹かれる木の葉のような言の葉の散歩をしてみたいと思う。過去と未来のあわいに永遠に似たかたちをしてあり続ける今、そこを歩いてみようと思う。散歩には過去も未来もなく、今ここを歩くことしかないと思うから。