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2F/当番ノート

さようなら、人間

当番ノート 第53期

東京の下町を歩いていると、活気ある商店街を抜けたその先に、いくつもの空き家が密集している場所があった。近くを歩いている初老の男性に話を聞くと、建物の老朽化でほとんどの住人が出て行ったとのことだった。

残っているのは、建物の一部は破損し、ドアも「立ち入り禁止」と書かれていながら開いたり閉まったりを繰り返し、窓ガラスは割れていて、管理されないまま放置された植物が生い茂る、無数のアパートだけである。

管理人の許可を得て、いくつかの建物を見せてもらえることになった。開いたままになっている入り口から中をのぞいてみると、一切の家財もなく、電気・水道・ガスも通っていない、空洞化した「家」がそこにはあった。朽ちた襖から部屋の奥を見ると……言い忘れていたが、時間帯は夕方だったため、電気のない空き家を照らす光は懐中電灯だけだ。夕日もほとんど差し込むことのない部屋は、色彩を失い、おびただしい暗闇に塗り潰されている。

その家は、かつて家であったことを思い出すかのように、ときどき、軋むような音を鳴らし、ほのかに畳の匂いを漂わせる。柱に刻まれている人間の成長の記録は、声高に、この家には人が存在していたということを私に教えてくれる。

蜘蛛の巣が張り巡らされたキッチンには、捨てるのを忘れたまま立ち退いたからなのか、からの食器用洗剤がぽつんと置いてあり、そうしたいくつかの残滓は、過去と今をリンクさせ、ここがかつて人の暮らす家であったことを忘れかけていた私や、そして空き家そのものにも、想像力を喚起させるトリガーとなった。

夢現のなかで見えたのは、この家に住んでいた家族の姿であり、数十年にも渡るときの流れでもあった。私は、ほんのわずかな時間にもかかわらず、この「家だったもの」が年老いてゆく時間を、ともにしたような錯覚を持った。

巡る季節や年月を住人不在で過ごす、かつて家だった何かは、私たちと同じ時間軸にいるにもかかわらず、「時間」という概念からは切り離され、取り壊されるまでのしばらくの間、時間とは無縁の世界を生きる。

老いて朽ちたアパートはほとんど誰からも関与されることなく、いずれは家であったことを思い出すこともできないまま、ひとり、老後を過ごし、死んでいく。

仮に……誰かがそういった家の玄関に入り、扉を閉めるとする。すると、不思議な感覚に包まれるだろう。外から聞こえるのは、人々の「生活」の音や、商店街の賑わい、観光客の声、どこかから聴こえてくる音楽である。

一方で、室内といえば、家だったころの面影が微かにあるものの、人もいなければ、音もしなければ、誰かが暮らしていることもない。ご飯を炊くことも、入浴中のシャワーの音も、そこにあったであろう、すべてのものが失われているのだ。外では今、そして未来の時間すらも流れ、室内には過去の時間がたえず流れ続け、個々人にとってのトリガーを見つけない限りは、現在や未来と繋がることはない。

「ドア」という境界は時間をウチ、ソトに分けることのできる装置であり、それは空き家でなくとも同様に、室内では時間を過去へと繋ぎ、屋外へ行くために開けば現在や未来を見せてくれる。こうした境界も、いずれ朽ちてしまえば老朽化したアパートさながら、「生」と「無」を作り出し、もう中に入ることもできなくなる。

このような立ち退きによって、住人のいなくなった家が日本に数多あることを忘れてはいけない。やがて死ぬまで老い続ける家にとって、エイジングに抗うすべはなく、孤独とともに死へ向かう。そんな家が、この国にはたくさんあるのだ。

岡本尚之

岡本尚之

1989年、広島県福山市生まれ。編集者。趣味がない。

Reviewed by
多村 ちょび

ふとした日常のなかに、まるで人に忘れられてしまったような空間を目にすることがある。例えば、実家の納戸に入った時、今は使われてない足踏みミシンを見た時、オルガン、錆びた取手の茶箪笥、壁のシミ、カビと埃の匂い。
そうゆうシーンを見るたびに、懐かしい感情よりも、憂い、あるいはちょっとした畏れがあることに気づく。

情景、匂い、音、体温まで感じられるようなこの文章を最後まで読んでタイトルに戻ると、「さようなら、人間」であることに、ぎょっとした。「さようなら、家」ではないのだ。「さようなら、人間」は、まるで家から「さようなら」と言われたようで、自分が主導権を握っていたと思っていた関係性がぐるりと変わってどきっとする。
忘れられた空間から畏れが生まれるのは、無意識のうちに、きっと言語化にさえ至らぬような、たくさんのメッセージを受け取っているからかもしれない。

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