入居者名・記事名・タグで
検索できます。

2F/当番ノート

白昼夢にさようならを

当番ノート 第53期

冒頭、長い言い訳から始めることをお許しいただきたい(誰にだろう)。そして、もしかすると言い訳のまま終わってしまうこともあるかもしれない。重ねてお許しいただきたい。

自分のことを書いたり説明したりする行為はひどく難しい。いくつかの外的要因によって「それまでの価値観・人生観」なんて一気に変わったりするわけで、いつもと変わらず生活しているにもかかわらず、唐突に、予期せぬ自分に出会い続ける人生。

ふと「あの人、ええな」と思えば、ファッションや行きつけの店を真似るだけでは飽き足らず、しゃべり方や、ついには考え方までトレースしてしまって、最終的には「あの人、ええな」が集積したものが、今の私たちであるかもしれない。現に私自身は、もともとはどんな話し方をしていたかさえ忘れてしまって、他人の持つ「ええな」が内面化されている。

そう、とてもじゃないけれど、私以外私じゃないことが当たり前ではなく、私以外が私である。ゆえに当初書くはずだったテーマはあるのだけれど、近頃めっきりとバグってしまった四季のようにクレイジーに移ろい、たとえば、私なりの『こち亀論』を書く予定が、『シモーヌ・ド・ボーヴォワール論』『アラスデア・マッキンタイア論』を書くことだってあるかもしれない。ああ、なんと人間らしいことか! 

ロジカルから遠く離れたものごとこそ美しく素晴らしい、とは私の信仰じみた信念だが、この2カ月の短期連載の間に出てくるであろう、さまざまなテキストは、政治家の発言のように、一貫性がないかもしれない。けれど、並べてその断片を読んでみたとき、意外とつながっている可能性も否めない。はたまた、まったく違う人が書いたもののようにも思えるかもしれない。しかし、それでいいのだ。理論整然としたものなど、まったくもって(書いていて)面白くない。

気付けば、言い訳のまま終わらなかった。そのことに安堵しつつ、書き記していこうと思う。

ある日の朝、LINEに実家の親から通知が来ていた。確認は後回しにしようと思いつつも嫌な予感がしたのでアプリをタップする。「うちの子(犬)が今朝、亡くなった」。13歳のミニチュア・ダックスフント。人間でいうと、70歳くらいだろうか? 

確かに、帰省するたびに少しずつ動きがゆっくりになり、耳は聞こえにくくなっていたけれど、それでも室内犬だ。もう少し長生きをするんだと信じていた。その死を、私は信じられなかった。だから「わかった」と適当な返事をして、布団にもぐり、二度寝を貪った。

目覚めて再び、「家族」グループを見てみると、「うちの子が今朝、亡くなった」「わかった」という無味乾燥なやりとりが残っていて、装飾のない無機質な会話を眺めながら嗚咽した。身構える間もなく、死は、突然やってきた。

実家では供養する準備が着々と進んでいた。連絡が五月雨に来る。「癲癇(てんかん)で苦しんだ様子もなかった。眠るように死んだんだと思う」「あの子の部屋を片付けています」「簡易なお墓を作ったよ」。

私の弟は立派な墓を買うと家族のグループに投稿していた。一方で、私は既読スルーをし、東京の自宅で、少しでも気を紛らわそうと仕事をしていた。まったく、手につかなかった。

我が家の小さな番犬は、もう何年も前から白内障で両目の視力を失い、散歩をすることすらできなくなっていた。病気になる前の時期に散歩をしていると、近所の人に「可愛いねえ」と声をかけられ、即座にお腹をさらけだす、降参だか甘えたいのか、リラックスしているかの無防備ポーズ。それも家族の前以外では見ることができなくなった。それからは、幸いにもそこそこ広かった、実家の庭で放し飼いにすることにした。

庭に放されてからは、野生に戻ったかのような顔つきになり、遺伝子に組み込まれた習性からか毎日穴を掘っていた。部屋で飼っていた頃に比べ、野生を取り戻しつつあった番犬だが、その時期だけでも「飼い犬」という枷(かせ)が外れ、楽になってくれていたなら、この上なく嬉しい。

最後まで苦しまなかった。眠るように死んでいた。そして、長く生きた。このことで、私たちは幾分か、愛犬の死を受け入れ、納得することができたのかもしれない。寿命だからと、理解できたのかもしれない。

しかし、突然の死によって取り残された私たちは、寿命を迎える遥か前に亡くなった人々に対して何を考え、何を思い、そして何ができるのか。今も、みなに愛されている人々が世界中で突然の死を迎えている。ちょうど去年の夏には高校の同級生が海難事故でこの世を去り、そのニュースをテレビで見て呆然とした。

ニュースで放送されていた同級生の「死」を見たとき、本能的な自衛のためか「ただの」「他人の」「死」と分解することで、受け入れることをやめて、考えることもやめた。だから、お葬式にも参加はできず、お線香もまだあげにいっていない。

─────

数年前、新宿の路上でたまたま出会った人と、「飲み会をしましょう!」という話になった。面白そうだったので実行することにし、どうせなら大人数でやりませんかと言われたので、じゃあ「お互い5人集めてやましょう」と、やや合コンじみた飲み会が始まった。

誘った友人の中には、私たちより少し年下で、新卒の吉田くん(仮名)がいた。彼はとてもノリの良い人間で、みんな彼のことが好きだった。

その吉田くんが2017年の冬に自殺した。あるときから飲み会にも不参加が多くなって、遊びの誘いも既読スルーが続いた。私たちはもちろん心配したけれど、もちろんそれぞれの生活があったりするわけで、吉田は忙しいんだろうなと思い、積極的に連絡をするのは控えるようにした。

うつ病だったと分かったのはそれからしばらく経ってからだった。彼と一番仲の良かった友人が教えてくれて、私たちは事の重大さにやっと気づいた。仕事を辞めた吉田はしばらく家でぼーっとして、それから職探しを始めたらしいと聞いた。私たちはみな、彼に電話をする勇気もLINEをする勇気も持ち合わせていなかった。けれど、「あいつのことだ、絶対になんとかなるだろう」と思い込んでいた。その後、就職が決まったと聞いた。

無事に就職したあかつきには、大学時代から付き合っている彼女と結婚すると話していたようで、私たちは素直に妬みながらも、素直に心から祝福した。

吉田くんは新しい会社の、初めての出社日の朝、自宅で首を吊って亡くなった。ほかの友人たちは彼の実家に行って、お線香をあげたらしいが、私はその現実を受け入れることができず、おそらく、ほかの友人たちも同じだったように思う。私たちは、彼が死んだことを受け入れるつもりなんてなく、Facebookの「今日は〇〇さんの誕生日です」という通知が年に一度届くたびに、この東京という街にまだ彼がいるのだと、心の中では信じているのかもしれない。それは今でも変わらない。

─────

小学生の頃、ゲームの世界の、何度死んでも生き返るキャラクターに憧れた。復活の呪文も、教会に行けば生き返ることも、なんとなく信じていたかった。私はその当時から、ゲームの世界のような白昼夢を、ずっと見ていた。けれど、そんなことはありえなくて、小学校ではクラスメイトが亡くなり、中学では後輩が自動車事故で帰らぬ人となった。

高校の友人は前述の海難事故や、アルコール中毒で、何人かこの世からいなくなってしまった。大学の知人は第一志望の会社に内定し、入社して数ヶ月経った後に白血病との診断を受け、それから信じられないようなスピードで亡くなった。

私はこれまで若くして亡くなった友人・知人の死を今もまだ受け入れることができず、もう何年も、ずっと白昼夢を見ている。しかし、人生はロールプレイングゲームではない。大切な人たちの死も、何年かすれば、いつかは風化して断片的な記憶の一部になっていく。残るのは「死」という事実だけだ。

Facebookで最近、吉田くんの名前を見たとき、私は彼との思い出をほとんど失っていたことに気付き、忘却する記憶には抗うことができないという事実と向き合うことができた。白昼夢にさようならを。もうすぐ冬がやってくる。友人たちを誘って、今度こそ、お線香をあげにいく。

岡本尚之

岡本尚之

1989年、広島県福山市生まれ。編集者。趣味がない。

Reviewed by
多村 ちょび

「死」は多面性を持っているように思う。亡くなった人の数だけ、異なる事実がある。どうして生まれる時は数通りなのに、死ぬ時は一つとして同じではないのだろう。
死がさまざまであるなら、それを自分がいつ受け取って、どのように向き合うかについても、さまざまであっていいのかもしれない。突然直面する死への態度に、正解なんてものはなく、例えば嘆き悲しまなくても、一旦置いといて日常生活を進めていても、誰に責められるでもない。たぶんそれぞれのタイミングで、自分の中に、答えが湧き上がってくる。

文章の中に出てくるいくつかの死と岡本さんの行動に、自分の記憶が呼応した。それは近しい人の死であったり、ディスプレイの向こう側の他人だったりした。普段は忘れているけれど、自分の中にも、いくつか消し去ることができない死の記憶があることに気づく。
どうしたら納得できるのだろうか、いやいや、納得できるのだろうか?

今年の冬、白昼夢から覚めた岡本さんは、何をみるのだろう。

トップへ戻る トップへ戻る トップへ戻る