いま、ここから、すこし離れた場所へ

第23期(2015年10月-11月)

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僕はいま、嘘をつきます。

これは僕です。
これは僕の顔です。
これは僕が描いた僕です。
それはほんとうです。
これは僕です。

僕はいま、嘘をついています。
僕はいま、嘘をつくという嘘をついています。
僕はいま、嘘しかつきません。
僕はいま、いません。
僕はいま、この顔をしています。
これは僕です。
でも、僕はこれではありません。
僕はどれでもありません。
でも、僕はここです。

僕はいま、嘘をついていました。

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名付けられるまえには
そこには
なにがあっただろうか
ふと そんなことを考えるときがある
名付けられるまえのこと
名付けられるまえのもの
名付けられるまえのひと
それ以前
そこにいたのは なんだったろう
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頭痛、吐き気、眩暈、腹痛、胸部圧迫、手の震え、幻視、幻聴、心臓の圧迫、寒気、涙、膝から落ちる。
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精神障害者という名前を社会から与えられたときの僕という人間のかたちは歪みに歪んでいた。そこにはもう、人間のかたちを保つ力というものはなかった。人間のかたちを壊そうとする力だけが氾濫していた。
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鬱病、躁鬱病、統合失調症、不安神経症、自律神経失調症。

医師から与えられた名前はべつになんでもよかった。名前などはどうでもいいことだから。
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このからだから離れられたら、と、そう願ったことも何度もあった。あたらしいからだに取り替えることができたらどんなにか楽だろう、と。でもそれは叶わぬ夢。僕は僕のからだから離れることはできない。これは僕のからだ。これが僕のかたち。それしかないのだから。

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ほんとうに、そう、だろうか?
西暦2015年10月27日。僕が問う。
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僕は、飴屋法水さんの演劇が好きだ。彼のかたちが好きだ。彼の人間が好きだ。それはうまく説明することができないことだけど、それは僕にとってのほんとうのことだ。

飴屋法水さんの演劇「ブルーシート」の戯曲は、本として出版されている。僕はそれを何度も読んだ。何度も何度も読んだ。その本の冒頭に、「上演に向けて」という短い文章が綴られている。ここにそれを引きたい。

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離人症というのは奇妙な言葉だ
人から離れた瞬間
その人は
いったいどこで 何に
なっているのだろう?

しかし
この離人症という言葉が
僕には希望のように感じられるのは
なぜなのだろう?

それはおそらく
希望というものが

現在という時間から
いくばくか離れた
未来という時間を
現在の中に
併せ持つことなのだと
感じるからだろう

10人の高校生たちと
ここと 少し離れたところを
往復してみる

この時間と 異なる時間を
この場所と 異なる場所を
この考えと 異なる考えを

僕らが
人をやめてしまわぬかぎり
僕らには
こうして往復するしか
手がない
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このからだから離れることはできないが、僕は、よく離人していた。

(いまでもときどきそれをしている。それこそ、まさにいま、西暦2015年10月27日午前10時40分。僕はいま、ここからすこし離れた場所で、ここからすこし離れたところにいるような心地がする。すこし、このからだから、ぬけだしている。離れている。空も、すこし、遠く、色あせて見える。)

それを離人症と呼ぶのだと知ったのはたしか2年前くらいのことだった。そして飴屋さんのこの文章に出逢った。わからないけど、よくわかると思った。僕にも、それしか手がないと思えていたから。

いま、ここに綴られている(と書いた「いま、ここに綴られている」という文言は、いま、それは西暦2015年10月27日午前10時42分の僕が書き加えたものであり、それは、この文章の初稿を書き終えたときからすこし未来にあたるとき、であり、それは、いま、から見ると、すこし過去に離れたときにあたる)この文章は、ウェブマガジン「アパートメント」という場所に掲載されることになる。それをいま、ここにいる僕はiphoneのメモ帳につらつらと書き綴っている。この文章が、画面のむこうのあなたの目にふれるとき、そこは、いま僕がいるこのいまからすこし離れた、未来の時間ということになる。そして、こうしてこの文章を書きながら、僕のいるこの現在は着実に過去へと進行していく。今はつねに流れ去っていく。とも言える。だから、この文章にふれるあなたと、この文章を書いた僕とは、僕の過去とあなたの今と僕の未来の時間のなかにあるということになる。すると、今、とは、どこにあるのだろう。

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そこはいまいつですか
そこはいまどこですか
僕はいつどこだれですか
あなたはいつどこだれですか
わたしはあなたですか
あなたはわたしですか
それは人ですか
それはそれ以前ですか
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わたしはいま空を見つめている
わたしはいま空を見つめている
わたしはいま空を見つめている
ここは西暦2015年10月27日午前10時47分
ここは太陽系第三惑星
ここは日本
ここは岐阜県恵那市大井町
ここはわたしの部屋
ここにわたしはいる
いまわたしはここにいる
ここですこし 人から離れている
ここですこし わたしから離れている
だから わたしは ここにいる
この文章のなかにいる
そこにいこうと そう思った
そこにいこうと そう思うのは
いつも きまって
わたしが わたしから
わたしが ここから
すこし離れたところへ行く必要を
わたしのなかのわたし?それ以前?が
それを教えてくれるから だと思う
おそらく それは わたしの
わたしという名前の
それ以前 にあるところの
わたし 以前
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(時間は流れる。いま、時計は、午前10時51分。時間が流れている。僕はそれを逐一確認する。それを記す。時間が流れていることを、文章は教えてくれない。言葉に時間は残らない。だから、なのかどうかはわからないけれど、僕はいまここに、時間を言葉として残している。それを遺している。)
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連載、というのも不思議な時間軸のなかにある。毎週、決まった曜日に、決まった時間に、一つの記事が公開されるわけだが、それはつねに、僕にとっては過去の痕跡であり、読み手にとっては現在のなかにある。読んでいるとき、それは現在だろう。けれど、僕の連載は、僕の過去や現在や、現実や幻想や、そういうふうに名付けられて境界付けられたものを縦横無尽に行き来している。それは意図しているというよりも、自然とそうなるものだった。

時間。それは一直線に過去から未来へと流れていくものであるようにも思える。時計の針は刻一刻と時を刻んでいる。時間は巻き戻らない。それは確かなことだ。

けれど、時間、をすこし離れたところ、時、のなかでは、それはすこし違う流れかたをしているのではないだろうか。時、のなかでは、僕たちは、ある種の自由、自在のなかを、縦横無尽に泳ぎ回ることができる。

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ここはいま、西暦2015年10月26日。午前0時8分。僕はいま、岐阜県恵那市大井町の僕の部屋にいる。

けれど、僕はいま、ここにもいる。この文章のなかにもいる。あなたに声をかけることもできる。音としては聴こえない声だけど、僕はあなたに、挨拶をすることができる。

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おはようございます
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こんにちは
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こんばんは
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はじめまして
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おひさしぶりです
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さようなら
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またね
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ほら、ね。

こうしてあなたに話しかけることができる。

僕はあなたがだれか知らないけれど、あなたもほんとうには僕のことをしらないから、それはおなじことでもあると思う。ほんとうにだれかのことを知ることはおそらくできないことだと思う。そして、ほんとうに自分のことを知ることも、おそらくできないことだと思う。そして、それらもまた、僕には、希望のようなものに感じられる。なぜだろう?

それはおそらく、すべてのことを知り得ないということが、いまここという現在とその人間から、離れることを許してくれるものだと思えるからだと思う。

僕は僕のことを知らない。
僕はあなたのことを知らない。
あなたはあなたのことを知らない。
あなたは僕のことを知らない。

だから、僕たちは、こことすこし離れた場所を、往復することができる。僕たちが、人をやめてしまわぬかぎり。そうするしか、手がない。が、そうすることができるのは、おそらく、ひとつの希望という名前で呼ばれるものでもあるのだと、僕には感じられるのだ。

想像力と記憶。
このふたつがあれば、
僕たちはどこへでもゆける。

たとえ、
からだが壊れていても。
こころが壊れていても。
時間に、縛りつけられていたとしても。

このからだ、
このかたち、
この人間であることから、
すこし離れたところへ、
旅にでることができる。

旅は、いつでも、
いま、ここ、に、
あるのだと思う。

それを望むなら。

(ほんとうに?)

想像力と記憶を用いて、僕はこの場所に、これまでに、5つの文章を書き綴ってきた。どれも、僕にとっては、ほんとうのことであり、同時に、それらは言葉でしかないとも言える。リアルではあるけれど、現実ではない、けれど、現実でもある、けれど、フィクションでもある。肯定と否定はいつもともにあるものだと僕は思っている。そこでしか、リアリティは、ダンスをはじめない。

精神障害者の僕の精神と肉体は、ある意味では壊れている。でも、壊れているということがどういうことなのかも、僕はほんとうには知らない。マトモがわからないならマトモでないこともわからない。それもまた、ともにあるものだろうと思う。

このからだをやめるとき、それは人であることをやめるときで、そのとき僕は、僕であることをやめることになるのだろうけれど、そのとき僕がほんとうに僕であることをやめるのかどうかさえも僕は知らないし、それは生きている人にはわからないことだ。わからないことをわからないままに感じていたい。わかったふりをして目をつむることは簡単だが、それではなにも見えない。リアリティのダンスを僕は眺めて、リアリティとともにダンスを踊りたい。そのとき、僕とリアリティは、最高のダンスパートナーとなれるだろう。だから僕は踊る。この肉体と。想像力と記憶とともに。永遠という名のいまという舞台の上で。

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西暦2015年10月26日。
ここはいま、午前0時30分。
あれからすこし離れたところに、
いまの僕はいる。
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(そして、いま、この文章を読み返しながら、僕は再びここに言葉を付け加えている。ここにいる僕は、あのときからすこし離れたところにいる。ここは西暦2015年10月27日午前10時56分。僕はいまここにいる。(ほんとうに?))
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あなたは、いま、どこに、どんなかたちをして、生きていますか。

生きて、いますか。
ほんとうに。

(ほんとうに?)
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追記

西暦2015年10月31日23時3分
このものがたりの何話目かに登場したある女性がどこかへと消えてしまった。僕はそのことをかなしく思う。さみしく思う。ものがたりのなかには彼女はいまもいる。けれどある場所からは彼女は消えてしまった。ほんとうの名前さえ知らない彼女のことを、僕はいまほんとうに、想っている。たとえ消えてしまっても、いなくなったわけではないのだけれど、いなくなったことそれ自体はほんとうのことでもある。彼女は消えてしまった。もしかしたら永遠に。どこかには生きているだろう。おそらく。そう信じている。名も知らぬ彼女。僕は彼女のことを知っている。そして、彼女のことを知らない。だからこそ、消えてしまった彼女のことを想っている。不在の在。消えてしまうことではじめてほんとうに想うということもある。かたちもしらぬ人。それでも、大切な人。僕のものがたりから抜け出して、でも、あなたのものがたりのなかを生きていてほしい。そうしてくれればそれでなにも問題はない。あらゆるものがたりは、あらゆる人間のなかにある。あらゆるものがたりの重なり、連なり、共鳴のなかで、僕たちは、人は、人間にいるのだ。人は人間にいる。いつも。僕たちが、人をやめてしまわぬかぎり。僕はあなたのことを想っている。まだ知らぬあなたへ。いつか知るあなたへ。永遠に知らぬあなたへ。あなたたちへ。それぞれのものがたりへ。いま、僕は、心からそれを祈っている。

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消えてしまうことと
いなくなることと
死ぬことと
それらはどのようにちがうのか
僕には
ほんとうには
わからないのかもしれない
この夏によくこの部屋で見かけた蛾たちは
もうどこにも見当たらない
彼らは
死んだのか
消えたのか
いなくなったのか
僕には
それを知ることはできない
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人をやめるまえに、僕は、僕のもうひとつの僕と呼んでも差し支えのないひとりの男と、ふたつの身体で、音楽に全身全霊を捧げる行為をはじめた。

それは、僕たちにとって、ほんとうに人間であることと、ほんとうに人間をやめることと、それらの同時、それらのあわいのものとしてある行為だと思っている。これは単なる記録だから、それはすべてを伝えられないけれど、こうして言葉にするのも野暮だけれど、僕たちは、いま、ここから、すこし離れた場所へ、人のかたちと人であることから離れることとを、やろうとしている。そのはじまり。1度目のまぐあいの記録。

いま、ここから、すこし離れた場所へ。
人だけど人でない場所へ。
音楽だけど音楽でない場所へ。
うたい、踊り、擬態、
人間のかたちのほんとうを知るために、
そして、ほんとうに知ることは、
思い出すことであることを想い、
いま、僕たちは、
百瀬雄太と原田卓馬は、
WARP ZONE MITAKAという時空間を結成した。西暦2015年。いま、ここに。
いま、ここから、すこし離れた場所へゆくために。
崇高と滑稽の狭間。
ハラワタの共鳴。
ねじれと裂け目。
精神は語り、心は泣き、知覚は笑う。
裂け目としての笑いへ向けて。
WARP ZONE MITAKAを起動する。
西暦XYZ年A月B日0時00分
永遠の未来と過去にむけて、
いま、ここ、から。

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ほんとうに人間であることは
どういうことか?