bedauern

第24期(2015年12月-2016年1月)

大きなチャイムが12時を告げた。
僕は勉強をしていた手をとめ、顔をあげると同時に、彼女のくっきりした二重の瞳を捉えていた。お互いの目が合った。いつもと変わらず。その瞬間に目が合うことを僕達はもう既にわかっていた。

僕と彼女は図書館の自習室にいた。そこは、四人掛用の木製テーブルが計八台あり、休日は受験生や読書をしにくるお年寄りで、すぐに席は埋まる。ただ、その日はいつもと違って、ちらほらと空席が目立っていた——。
目線での確認を済ませた僕と彼女は、いつものように母の手作り弁当を持ち寄り、昼食をとりに自習室から出た。元々彼女とは友人を通じて知り合った。お互いの学校は違ったが、彼女のことはいつも図書館に来ている子、として知っていた。第一印象は静かで真面目な子、というだけのものだった。原則自習室での飲食は禁止されているが、それを守る人のほうが少ない中、彼女だけは一度自習室を出て、水筒に口をつけていた。探してみてもそれは彼女だけだった。知り合った当初は友人と三人で図書館へ行き昼食をとっていたが、次第に毎週末二人で図書館に行くようになっていた。

チャイムの音と共に、彼女と自習室を出た僕に突然、嫌悪感にも似た何かが体を染めていくのを感じた。忘れようと呑み込んだはずのそれが頭から爪先まで黒く染めていく。ふと、朝普段通りに見送ってくれた母の顔が浮かんだ。
その日は平日だった。今頃二限目が終わる頃だろうか。空席の僕らの席とは関係なく、授業は始まりそして終わるだろう。僕達はまだ制服を着ていた・・・。

図書館近くの公園で昼食を済ませた僕達は、すぐには戻らずあてもなく歩いていた。
いつも13時少し前まで散歩をして、食休みのようなものをするのだ。そして13時には図書館で、三ヶ月後に控えた大学入試のための勉強を再開していた。この15分ほどの時間で会話は二、三程度のものだが、僕達にとってはそれが心地よい距離感のような気がしていた。
「髪型変えた?」
僕は照れるように言ったので、少し口籠ってしまい、彼女は、え?と言った。
彼女の視線が真横から自分に注がれていることが判った。
僕はそれ以上何も言わず、ごめん独り言・・・とだけ言った。彼女の容姿にふれる、それだけのことが、彼女の前では恥ずかしかったのだ。
「えー・・・独り言じゃなかったよー」
そう言った彼女の言葉は、どこか淋しそうで、恥ずかしそうで、照れているようで、それでももう一度聞きたかった、というような、そんな声だと感じた。横目で一瞥した彼女の表情は怪訝そうなそれではなく、小さく微笑んでいた。
僕は彼女の笑った時の相好がたまらなく好きだった。雪を欺くような肌に、遠慮深そうに見せる上下に綺麗に並んだ白い歯と、大きな二重の瞼同士がその時だけは、めいいっぱい近づくのだ。
「ストパーをかけたの」
下を向きながら、控えめに彼女は言った。
「あ、そうなんだ、似合って、ますね」
「あ、ありがとう・・・」
いつもと変わらず、お互い頬を赤らめ、躊躇しながら、こつこつと言葉を選んで、まるでそれ以上話してしまうと、そこから何かがあふれ、こぼれてしまうような気がした。
じゃあ戻ろっか、という彼女の言葉をうけ、僕たちは来た道を引き返した。
二人で、冬の湿った土の匂いを体でうけ、歩いていた。
その匂いに魅せられたのか、図書館に入りかけていた彼女を、僕はとめた。
それは、あまりに恣意的に僕の中にこみ上げたものを、荒々と吐いたように思う。

気づいた時、僕達はそれぞれの机に向かっていた。
腕時計の針は13時25分をさしている。
ただ、目の前で必死に赤本を解いている彼女の相好は、確かに笑っていた。

 
決してスムーズではなかったが僕は大学生になり上京し、彼女は地元の短大へ進学した。
上京する前、引っ越しを一週間遅らせた僕は、彼女と所在なく公園のベンチに座っていた。三月の終わりにも関わらず、空気は少しまだつめたく、二人の体を冷やした。
しばらくベンチに座ったままお互いが黙りこんでいた。ただ、彼女は僕だけを見ていた。小柄で、姿勢のいい彼女を、見なくても容易に想像ができた。明日には東京に行かなければいけない。そう思ったとき、僕は何を話していいのか分からなくなっていた。視線は意味もなく青と灰色の絵の具で塗ったような空を見やっていた。
そして、先に口をひらいたのは彼女だった。
「ねえ、何か話して・・・」
そういった彼女の声はいつもとは違った温度で、どこか悲しみを帯びていた。
「そうだなー、じゃあ東京で遊ぶならどこがいい?」
逡巡していた僕は、わかっていながらそう答えた。勇気が出なかった。二人の想いは1ミリの誤差もなく等しく、気持ちの確認作業をするだけだった。
もう彼女は僕を見ていなかった。それが僕と彼女の最後の会話になった。息をすることを何かに憚られているような、そんな苦しさを感じ、すべてを後悔した。友達以上の存在になることができなかった。

そして東京の生活にも少しなれ、一年が経とうとしていた。
地元で感じていたあの土の匂いが、不意に鼻にとどいた。
その瞬間、僕の中にある彼女との途切れていたフィルムが、恍惚として思いだされた。
携帯の履歴にもう彼女の名前は無かったが、僕はそれを連絡先リストからすぐに見つけることができた。時間はかからなかった。電話をかけた手が、麻痺しているようで少しの間、耳元に添えることができなかった。
「もしもし、どうしたの」
一年振りに聞こえてきた彼女の声に、僕はひどく落胆した。以前の僕に対する声の温度とはまるで別人だった。
あの時、あの場で言えなかった想いを、いまさらになってすべて吐き出した。吐き出す前から、望んでいないものが返ってくることは電話に出た瞬間分かっていたのかもしれない。
「ごめん今大切な人がいるの」
躊躇することなく彼女はそう言った。まるで用意していた解答をそのまま読み上げるように、その出来事に余韻を残すことなく別れを告げた。

上京してできた二人の距離は実際のものよりも遥かに遠く、お互いの影を忘れるのに一年という歳月は十分すぎた。
窓から射す夕方の光が、部屋を満たしていくのを感じながら、彼女の履歴が残った携帯をそっとポケットにしまった。フリマで買った五百円のトートバックを持ち、夕飯の買出しのために部屋を出た。何ひとつ変わらず。いつものように。

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【おわり】

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
【 雨子の話 6 】

*本編の”bedauern”とは関係のない雨子の話