恍惚とした日々

第24期(2015年12月-2016年1月)

好きなものは何?って訊かれたとき、京都って答えるようになったのはおそらく彼の影響だろう。

始発で東京駅を出発し、二時間ちょっとで京都駅についてしまう。
「女の一人旅なんて素敵ね」なんて会社の先輩に言われたけど、忙しい夏のこの時期に有休で三連休を取った私に対する皮肉の意味も込められてる気がした。女の一人旅。
荷物は、リュックの中に入れた文庫本、財布、銀塩のかわいいカメラ、行きたい場所を記載したメモだけ。着替えは今着ている紺と黒と茶の三色で揃えられたチェックのワンピースに、彼からもらった、かかとにひげのマークの入った白いスニーカーだけ。一番好きだと言ってくれていた格好だ。
下手に大荷物にすると、必ず何か忘れたことに気づき落ち込んでしまう。それが嫌で最初から把握できるだけの荷物にするようにしている。

京都駅はたくさんの人でごったがえし、まるで暑さをそこに集めているかのようだった。空は申し分のない快晴で、日焼け止めを持ってこなかったことをにわかに後悔した。
目の前に佇む京都タワーを見ると、来たんだな、と感じることができ、鞄の中からメモを取り出した。彼と行きたい場所がかぶっていた嵐山に最初に行くことにした。

山陰本線で嵯峨嵐山駅に着いた。方向音痴の私は地図だってまともに読めない。おまけに機械音痴でもあり、携帯だってメールと電話がせいいっぱいで、一人で新幹線に乗ってどこかへなんて考えられなかった。
駅からは人の群れについて行った。
「ねえ。わたし一人で知らない土地を歩いているのよ」と彼に言ったら、きっと驚いて、大好きなお酒をやめてしまうかもしれない。あるいは、心配になってわたしの側を離れなくなるかもしれない。盃で飲む日本酒がうまいんだよ、なんて今も言ってるのかな。

普通の家々を両脇に見ながら進むと、にぎわった大通りに出た。そこから甘い焼き鳥の匂いを漂わせる小店の角を曲がり、さらにまっすぐに進むと、緑でいっぱいに彩られた竹林道に入った。人力車がすみませんと言いながら狭いその道を揚々と走り、着物を着た女性や、こぞってカメラを構える外人さんでそこは溢れていた。
しばらくその竹林道は続き、奥まで歩くと徐々に人も減り、錫杖を持ったお坊さんとすれ違ったのを最後に誰とも会わなくなってしまった。
風が吹くたびに揺れる竹林に少しだけ不気味さを感じながら、さらに行くと踏切があった。
おそらくもう使われてはいないであろうそこを渡ろうとした時、スニーカーの靴紐がぷつっと切れ、かかとを何かにつかまれたような痛みと赤い傷跡が残った。

結局私は踏切から引き返し、嵐山を離れた。
その後は、彼がすきそうな場所、彼が行きたいといっていた場所、彼がやりたいと言っていたこと、メモに書いてあったそれらをひたすらにこなしていった。
清水寺では、三つの流れる滝の真ん中である恋愛成就を二人分飲んだし、トロッコ列車に乗ってたどり着いた馬堀は、私の知っている京都とは少し違った、どこか風情のある田舎のような表情を見せてくれた。
祇園にいけば会える気がして行ってみたけど、やっぱりいなかった。
どこの神社にいっても願ったことは一つだった。

二日目の夜。東京へ帰るはずの新幹線を見送ってしまったのは、嵐山のあの場所が引っかかっていたからだ。私は、ちょっとした忘れ物を取りに帰るように、足取りは軽かった。嵯峨嵐山駅を降り、真っ暗な夜道を歩いた。道は体が覚えていたのか立ち止まることはなかった。すらすらと歩いていく自身に違和感を覚えたのは竹林道に入ったあたりだった。
昼間は大勢の人でにぎわっていたその道も夜になると、道の端に小さなランプがずっと並んでいるだけだ。そのまま何かにひかれるように、昼間の踏切を渡ると空気が薄くなったような気がした。彼はここにいるように思えた。

足元の小さなランプしかない竹林の中に、二つ青白い光が通路右側の竹林から見えた。
だんだんその光りが大きくなり、何かがこちらに近づいて来ていた。足音が止まったので、竹林に近づき、目を細めた。その視線の先には、盃を片手で持ち、ひょうたんを担いだ、青白い大きな瞳でこちらを伺っている人のような何かがいた。鬼のような形相のそいつは、闇の深さに耐えるようにじっと私を見ていた。かかとの傷が痛み、呼吸が苦しくなっていた。
さらに竹林に近づくと、そいつもこちらに近づいてきた。私は尋ねようとした。京都にきてから願った、ただ一つのことを。
「願ってはだめだー!」
と、大声で、錫杖を持ったお坊さんがものすごい速度でやってきて私を抱きかかえながら、来た道を引き返した。踏切を抜けると息苦しさはなくなり、さっきまでぴったりと竹林からついてきていたあいつもいなくなっていた。
「何かをお願いすると言うことは代償が伴う。ましてや言葉は言霊だ、口にしてしまえば最後、あなたは足を持っていかれるだけではすまなかっただろう」
と、辛辣な表情でお坊さんは言ったあと、すぐにいなくなってしまった。文字通り消えてしまった。私は人ではない何かに、ひそかに願いそうになったのだ。

冷静になると、彼にはずいぶんと前に愛想をつかされていた気がする。
どこにいるのかも、何をしているのかもまったくわからなかった。
でも、もし戻れるとしても、私はもう戻らないかもしれない。そう思えた。

早く東京に帰ろう。

【おわり】
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
【 雨子の話 7 】

*本編の”恍惚とした日々”とは関係のない雨子の話