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2F/当番ノート

理想のお寺像との出会い

第28期(2016年8月-9月)

はじめまして。
この度金曜日を担当することになりました、
僧侶の鈴木秀彰(すずきひであき)です。

「人の一生に寄り添う僧侶」をテーマに、
僧侶のみならず、理学療法士、心理カウンセラーとしても活動をしています。

今年で僧侶になって20年目になりますが、
そもそもは実家がお寺というだけで始まった仏道への道、
最初は正直、僧侶という仕事に魅力を感じていませんでした。

仏道の本格的な始まりは大学に入学してからのこと。
理系大学を目指していたけれどどこもうまくいかず、
ただ当時浪人だけは嫌だったんで、
残っていた選択肢である仏教系大学に入学したのです。

そんな感じで始まった仏道ですから、入学してからも全く興味を持てず、
今まで高校までやってきたことの延長のように、
暗記科目として仏教を学んでいた、というより聞き流していました。

そんな僕が冒頭で書きました、
「人の一生に寄り添う僧侶」をなぜ目指すようになったのか。

そのきっかけは約4年前、「人の一生に関わるお寺」と出会ったことにあります。

今思えば、現在の葬式仏教への疑問が、僕の中に種火のようにあった気がします。
本来のお寺の役割を知ったことが、僕に大きな影響を与えました。
お寺には、「学ぶ」、「楽しむ」、「癒す」という3つの役割があったことを知ったのです。

実家であるお寺を、ある程度収入もあり、魅力のある場所にできないか、
人に関心を持ってもらえ、人を呼べるお寺になれないかと考え、
他のお寺をいろいろと見学したり、調べたことがきっかけでした。

昔のお寺は「寺小屋」として、今でいう学校、学びの場としても機能していたのは有名な話だと思いますが、
それ以外にも、子どもたちが遊んだりする公園でもありましたし、
軒先で人々がお茶などを飲みながら世間話をして心を休めたり、
「困った時はあのお坊さんに聞いてみよう」というような、地域の相談窓口としても機能していたりと、
いろいろな方が足を向けられる寄り合い場であったということを知りました。

当時の人たちの中には、お寺という存在は今よりももっと身近なものであり、気軽に足を運ぶ場であったようです。
お寺という場には、「学ぶ」、「楽しむ」、「癒す」という3つの役割が存在していたのです。
それを知った僕は、これこそが今後もお寺が存在する大変重要な役割であり、
人に関心を持ってもらうためのキーワードであると感じました。

しかし今はどうでしょう。
僕が仏道に入った頃は、まだまだイベントすら開催しているお寺は少なく、相変わらずの葬式仏教がメインでした。

有名な仏像や建築物があって、修学旅行や観光で候補地に挙がるようなお寺は別ですが、 その他は葬式や法事以外では訪れることのない場所になっていました。

そこで僕は、実家のお寺にまずその役割を取り戻そうと、あるテーマを掲げます。
それが「人の一生に関わるお寺」でした。

先程の3つの役割は特定の世代だけを対象にするものではありませんから、
どの世代の人にも来てもらえるように、人の一生に関われるお寺をつくろうと考えた訳です。

この3つの役割に対して、何かできることはないかと色々な方に話をしていると、
共感してくれた友人のご縁で、まず音楽会を開催することができました。
そのとき初めて、人の前でいわゆる「法話」というものをしました。

初回は約100人以上の方に参加いただいたのですが、
あまりの緊張のため、事前に何度も練習した話は、ものの見事に頭真っ白。
今でも恥ずかしい思い出となっています。

それから、ヨガ教室を始め、子育て座談会を開始し…と、今では週に2、3回、なにかしらのイベントを開催するまでになっています。

座談会、シェア会、ワークショップ、イベント出店、そして1対1の対面と、様々な形で人のお話を聞いています。

こうした活動の中で私個人のテーマともなる、「人の一生に寄り添う僧侶」に出会うことになるのです。
次回はそこからお話を進めていきます。

合掌

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鈴木 秀彰

鈴木 秀彰

僧侶。理学療法士。心理カウンセラー。
「人の一生に寄り添う僧侶」をテーマにいろいろやってます
仏教をどこか身近に、どこか面白いなって感じてもらえたら嬉しいです

Reviewed by
唐木 みゆ

鈴木 秀彰上人の「理想のお寺像との出会い」によせて、



お寺の利用が儀式性に限定されることや、僧侶が職業化することへの疑問をもった、鈴木上人の旅について
冒頭が語られている。

ところで、
カトリックの教会は地域や人に寄り添い、神父さんは地域の個々人をよくよく把握していることを非常に重視している。
実際にブラザー、シスターと言ったり神父さんをファザー、マザー呼ぶから信徒たちとの魂の家族としての関係、
距離が理想なのだろう。
以前、フランスに旅したとき教会には懺悔中の人がたびたびいて、懺悔の窓口は、いいシステムだなぁと思った。
一人で思考がどうどう巡っているとこじらせるし、心が病気になる前のケアにもなってるんじゃないかなと思って。
神父さんは心理科を出た人も多いそうだ。


私はハタチごろに毎日退屈でなににも魅力を見いだせずに、このまま寝て起きて死ぬのかなあ
と安全な実家で思いつめ、(どこにいるかは問題ではないのだが)両親に黙って家を出て房総真ん中あたりのお寺に短期の修行に出た。
苦行は意念においての一つの自殺だと私は思っている。
退屈な日常で、死ねるなら本当は死んでしまいたかった。
もちろん。儀式的に死んで山を降りるときには晴れ晴れと生まれ変わったようにも思った。

いろいろあったのだがそのお寺ではそれぞれの苦しみについての話を聞いてあげることが重視されていた。
もうそれは、色々な状況の人が来るわけですが
こういった行には様々の種類に参加する人、何度も来る人もいて
何度も行に参加する人に、ある時お寺のお上人がなぜかと尋ねると「ここでは、話を聞いてくれるからまた来てしまったのだ」という。
何度来ても意味はない、さっさと世間で本当の行を積め。といったことがお上人の主張であり
それ以降は来なくなったそうだ。
すべての行は非日常が終わっても、日常においてもいずれかの形で継続しなければならないが
辺境の山のお寺に何度も通うことをよしと考える行もあるので、やり方はそれぞれの方針に従うべきだ。


ちょっとこれは余談なのだが、死んだ(見えないはずの)人もガンガン来て、その場にいる一同で
同じ見えない人を認識することもあるのだが、
「生きてるうちはお寺なんかちっとも来なかったけど、
どうも、自分は死んだらしくて・・
どうしたらいいか分からないんですけど、
こういうところに来たらなんとかしてくれるんじゃないかと思った。」
ということもよくあってですね
(こういう話はおもしろいけど、証拠とかないから置いといて。)

それで、

「話を聞いてほしいから、また来てしまった。」

のは寂しかったのだろうなと思う。
どこへ行ったって、寂しいし
寂しさの手の届かないところは世界の隅々までどこにもないうえ死んでも存在しない(のだろうな)けど、、

また別のお寺の共同で
やっている悩み相談電話というものがあって、今にも自殺せんと準備万端のお電話や
我を失った電話がかかってくることもあり、ひっきりなしで僧侶の疲弊はすごいし結構な重労働になる。
8時間電話を切らない人もいるし、、、生きてても死んでてもこの「なんとかしてよ」「なんとかしてくれるんでしょう?」が変わらない。
あれ、これってスナックに入り浸る管巻きおじさん?

話を聞いてあげること、話すことは必要だと思う。
しかし、本当は、
本人自身との対話の中で自分の居場所が自分の中にしかないことを知ることが
実感をともないながら生きることであり、(時にしっかり死ぬことであり)
いつかは話を聞いてもらうことの緊急性が癒えなければいけないと思う。

それは結局、一人でいても漠然と「愛されてる」と思える肯定感がまあまああるって事なんじゃないかな。
見失うこともあるけどさ。
すぐに人に吐き出しすぎたら、ツイートしすぎたら、溜めておくこともなく原因を探ることもできないじゃん。
ちょっとは消化もして。っていうエクスキューズ付きでね。

私はここ数年、小乗仏教とかヒンドゥー教の哲学にかぶれて寄り気味になってしまったので、
これが、大乗的な、慈悲に基づいた、思いやりのある、利他心の、答えなの?
というのはちょっと十分考え至っていないから、
鈴木上人の意見とは必ずしも合致しないかもしれないし、他の答えの出し方もあるだろう、といっておくね。
あと、みなさまに心から意念のラブを。


鈴木上人の「人の一生に関わるお寺」の展開を、次週を、また楽しみにしています。




唐木みゆ

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