夜想曲「パンと空白」 第7章:泣く女

第28期(2016年8月-9月)

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品川駅に着くと僕は人の多さに圧倒された。夕方の四時でも日差しは強く、駅の窓を通してもなお僕の肌をじりじりと焼く。僕は通路の端を早足で歩き、待ち合わせ場所に向かった。

ビルに入ってすぐ、白くて大きな機械が目に入った。どこかで見たことがある。人々が並んでかばんをカゴに入れ、箱のような形をしたスキャナーに通し、その間に自分はゲートの下をくぐる。金属探知機だ。

僕は訝しがりながらも小さなショルダーバッグを下ろし、カゴに入れ、ゲートの下をくぐった。警備員はただ黙って通り過ぎる客を見ていた。いつこんなものが設置されたのだろうと考えながら、僕はスキャンされたバッグを受け取り、通路を進んだ。その先に広がっているのは見慣れた光景だ。僕は予約したレストランに入った。名前を告げると、店員が奥の席へと僕を通した。待ち合わせの相手はまだ来ていない。それもそのはずだ。手持ち部沙汰になって随分と早く家を出たのだ。

「早かったのね」
それでも彼女は約束の十分前に姿を表した。夏らしいパステルカラーのワンピース。僕は微笑んだ。彼女と会えたことが嬉しくて、思わず席を立ったくらいだった。けれど同時に驚きもした。彼女のお腹は大きく膨らんでいたのだ。
「久しぶり」
我ながら間抜けな声だった。近付いてくる彼女のお腹を見つめていると、彼女はくすくすと笑った。
「びっくりした?」
「すごく。いや、おめでとう」
「ありがとう。今七ヶ月なの」
席に座ると、彼女は愛おしそうにお腹をさすった。僕は急に慌ててしまった。
「妊娠してたとは知らずに、呼び出したりしてすまなかった」
「気にしなくて大丈夫よ。つわりは大変だったけど、治まってからは調子がいいの」
「旦那はどうしてる?ちゃんと君を支えてる?」
旦那は彼女と僕の共通の知人で、会社の同期だった。
「もちろん。最近は夕食を作ってくれるのよ。昔は包丁を持つのも嫌がってたのに」
「良かった」
彼女は同期の中でも明るく、優秀で、人気者だった。僕と近い部署に配属され、よく相談に乗ってもらっていた。技術職の集まった部署で地味に仕事をする僕に対して、彼女は営業職で多くの人と友好的な関係を築き、あらゆる情報に精通していた。
「私のことよりあなたのことよ。心配したのよ。急に会社に来なくなったから」
「突然のことだったから、あまり人に話せなかったんだ」
「連絡をくれて嬉しかったわ、本当に」
彼女のジンジャーエールと僕のアイスティーが運ばれてきて、僕たちは静かに乾杯した。彼女の妊娠に。そして数カ月ぶりの再会に。

「具合はどうなの?」
「そうだな。酷くはないけれど、特別回復したわけでもない。どこまで聞いてる?」
彼女は首を振った。
「具体的なことは何も知らないの。体調を崩してるって、あなたの上司から聞いただけ」
「そうか」
言われてみればそのはずで、特別な事情が無い限り、社員が休職した理由については公表しないよう管理職には言い渡されている。
「眠れないんだ。それに色々なことを忘れる。それで働くことが難しくなったんだ」
「不眠症?ストレスかしら」
「わからない。理由がわからないから余計面倒なんだ」
彼女は静かにジンジャーエールを啜った。
「不眠は薬やセラピーでだいぶ改善されたほうだと思う。けれど思い出せないことについては何も解決していない」
「思い出せないって、どういうことなのかしら」
「例えば、買い物に出かけるだろう。何を買おうとしたか忘れる。お湯を沸かす。何のために沸かしたか忘れる」
彼女は顔をしかめた。
「大変そう。痴呆症になったおばあちゃんのことを思い出しちゃうわ」
「そう。まさにそんな感じだ」
「他には?」
「昔のことも幾つか思い出せない。靄がかかったようなんだ」
彼女の顔が曇った。昔のこと。彼女はひとりごとのように呟いた。

僕はこの再会に、下心を抱いていた。というのも、彼女と話すことで自分の思い出せない記憶を補完できるかもしれないと思っていたからだ。少なからぬリスクがあったけれど、試さずにはいられなかった。けれどお腹の大きな彼女を見ていると、こんなことを考えている自分が卑小に思えてきた。彼女は穏やかな声で切り出した。

「ごめんなさい。もっと早くあなたに連絡すればよかったわ。一人で抱え込んでいたのね」
「謝ることはないよ。僕も休み始めた頃は混乱していたから、誰かに会おうなんて考えもしなかった」
「じゃあ今は、少しは良い方向に向かっているってことかしら」
「そうかもしれない」
彼女は微笑んだ。

「最近の職場はどうかな。話を聞きたかったんだ。まだ復帰は決まってないけど」
「そうね」
彼女はどんな部署にどんな仕事が集中しているか、誰がどこに異動したか、わかりやすく説明してくれた。僕はそれを聞きながら、自分がとんでもなく無謀で恐ろしいことをしているような気がした。

「あなたがもし復帰するなら、少し楽な部署でペースを戻しながら慣れていくのがいいと思うわ」
「そうだね」
僕はアイスティーを啜った。
「君の話を聞いていると、すぐにでも仕事に戻れそうな気持ちになってくる」
「油断しないでね。また倒れたりしたら困るわ。もうこれ以上休めないっていうくらい休んできて」
彼女は笑ったけど、僕は曖昧に微笑むことしかできなかった。
「思い出せない自分に苛立ちながら過ごすよりも、君のように元気に働いている人たちがいるところに戻ったほうが、気持ちも前向きになれるような気がする」
素直な思いだった。彼女は俯いた。
「一人でじっとしているのって、辛いわよね。私もつわりが酷いときは家で横になっていたんだけど、静か過ぎて怖くなったことがあったの。子供がお腹にいるからしっかりしなくちゃと思うのに、誰も私を見ていない、私がここで倒れちゃっても、誰も気付かないんじゃないかってそんな気持ちになるときがあった」
「でも君は前よりも元気そうだ。もちろん前もいきいきとしていたけど・・・今はすごく輝いて見える」
彼女は顔を赤らめた。
「何を言い出すの」
「本当だよ」
実際、彼女の頬は幸福そうに上気していたし、女性らしい、柔らかい雰囲気が増したようだった。彼女は微笑んだ。
「この子がお腹にいるってわかったとき、最高の気分だったわ。それまでは、自分は負けないぞって思いながら仕事してたの。うちの会社は気の強い男の人が多いでしょう?そういう人たちに取り残されたくないって思ってたのよ」
僕は頷いた。確かに彼女が働いている姿には、そういった負けん気の強さを感じるときがあった。
「でも妊娠したってわかった瞬間、守りたいと思うようになったの。守りって、保身だとかそういう意味じゃないのよ。本当の意味で強くなって、この子が笑って生きていける世界にしたいと思ったの。だって・・・」

彼女はそこまで言うと急に声を詰まらせて下を向いた。彼女の肩が小さく上下するのを見ても、僕は彼女が泣いているのだとすぐには気付けなかった。

「ごめんなさい」
小声で絞り出すように謝られても、僕は驚きすぎていて上手く反応できなかった。
「具合が悪いの?」
「そうじゃないの」
彼女はしゃっくりを上げると、かばんの中から白いハンカチを出して顔を覆った。

彼女はしばらくの間、声を押し殺して泣いていた。僕はあまりにも急な展開に、自分が何かしてしまったのだろうかと酷くうろたえた。一方、彼女は慣れた様子でハンカチを顔に押し付け、もう片手でお腹をさすっていた。時折鼻をすする以外に音を立てないので、人はこんなにも静かに泣けるものなのだろうかと思ったくらいだった。彼女は涙をひとしきり流すと、深く溜息をついてハンカチを膝に置いた。それらの動作には迷いや乱れがなかった。僕にはどうしても、彼女がこんなふうにして日々泣いているように思えてならなかった。

「ごめんなさい」
僕は言葉が出なかった。
「時々、涙が出ちゃうのよ」
彼女は目を赤くしたまま無理に笑ってみせた。僕は戸惑いを隠せなかった。

「何かあったの?」
彼女は次の瞬間に、また涙を一筋流した。僕は慌てた。
「言いたくないなら、言わなくていい」
彼女は首を振った。
「この子に生まれてきて良かったと思ってもらいたいから、私は強くならなくちゃいけないの」
僕は彼女の悩みを一欠片も理解できない自分が情けなく思えてきた。
「なあ、僕は頼りないかもしれないけれど、話を聞くことくらいならできる。話してくれよ。一人で抱え込んでるのは君のほうじゃないか」
「そんなことないわ。悲しんでるのは私だけじゃない。たくさんの人が悲しんでるんだもの」
僕は混乱した。

たくさんの人が悲しんでいる?
何の話をしているんだ?

僕は彼女に聞きたかった。けれど彼女にそれを聞くことはできなかった。彼女は今深い闇に沈み、自力で這い上がってきた。僕は彼女を見守ることしか許されないような気がした。詮索してはいけない。僕は自然と、自分の右手を彼女に向かって差し出した。渋谷で会った、大学の同級生がしてくれたように。

彼女は弱々しく手を差し出し、僕たちは手を握り合った。彼女は再び泣きそうな顔になった。

「謝らなくちゃいけないのは私のほうだわ」
「どうして?」
「あなたが苦しんでることに気付けたはずなのに、自分のことばかり考えてたんだもの」
今度は僕が笑ってみせた。
「僕のことより、君自身や、君の赤ん坊のことを気にかけてくれよ。僕ならきっと元通りになる。時間さえかければ」
彼女は何度も小さく頷いた。

帰り際、彼女は僕に膨らんだお腹を触らせてくれた。この中に新しい命がある。そう思うと不思議だった。
「やっぱりあなたには早く戻ってきてほしい」
僕はどうして、と聞いた。
「あなたに一人でいてほしくないの。すぐに仕事をするのは難しいかもしれないけど。とにかく、あなたは一人でいてはいけないのよ」
僕は頷いた。彼女の言葉はどこか宿命的に正しいような気がした。
「わかった。実は自分から会おうとしたのは、君が最初なんだ。これから少しずつ知り合いに会ってみるよ」
彼女は女神のように微笑むと、手を振って改札の向こうへと消えていった。僕は彼女が人にぶつかってしまわないか気になって、姿が見えなくなるまで見送った。

<続く>

挿絵協力: keitoさん