夜想曲「パンと空白」 第5章:名刺を置いていく女

第28期(2016年8月-9月)

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クローゼットを整理してわかったのは、荷物が明らかに減っているということだった。そして一番驚いたのは、スーツケースが見当たらないことだった。

黒い、どこにでもあるようなスーツケースだ。大学の卒業旅行のときに買った。壊した記憶はない。いや、壊して捨てたのを忘れたのだろうか?誰にも貸していないはずだ。空き巣が入って、スーツケースだけ奪っていく可能性も考えにくい。僕はクローゼットを閉めると、ベッドに倒れこんだ。どうしてこんな大きな荷物が無くなったことに、今まで気付けなかったのだろう?

そしてスケジュール帳だ。二冊のスケジュール帳は三年前のものと二年前のもので、一年前のものが無かった。たまたま去年だけ買わなかったということは考えにくかった。僕は仕事の用事は大抵、手帳に書き込むようにしていたのだ。そして今年のも見当たらなかった。買った記憶はもちろん無い。

胸の中で黒い穴が渦巻き始めていた。僕は胸に手をあてた。深呼吸だ。深呼吸をすれば渦は消えるはずだ。けれど渦は加速して大きくなった。息が上がる。いつものことだ。僕は赤ん坊のように身体を縮こまらせ、目を瞑った。わかっている。実際には何も起きていない。僕は何にも襲われていない。ドア一枚隔てた所にある冷蔵庫が低く唸った。ここは現実だ。僕は自分の部屋にいる。脅かされるようなことは何も無い。

眠っているのか、起きているのかわからないような状態がしばらく続いた。渦が大きくなっていくのか、小さくなっていくのかわからなくなった。ぼんやりと目を開けたとき、窓の外は真っ暗だった。月も星も見えなかった。

僕は鉛のように重い身体を無理に起こした。部屋にいてはいけないと思った。どんなに発作が苦しくても、僕は外へで出なければならない。僕はシャワーを浴び、着替え、スニーカーを履いて表へ出た。僕は今、二本の足で立っている。そして外へ歩み出そうとしている。酷く暑い、東京の街へ。

歩き始めると、自分の身体が頼りないものに思えてきた。すぐに疲れてしまう。圧倒的に筋力が落ちていた。サバンナを歩いていたら真っ先に狙われる、弱った獣のようだ。けれど歩いているうちに、自分が歩けるという事実に勇気づけられるような気もした。僕は特に行き先を決めずに地下鉄に乗った。

新宿三丁目駅で降りると、やたらと人が多かった。何か催し物でもあったのだろうか。駅を出たところで僕は二人組の警官に呼び止められ、身分証の提示をするよう言われた。僕は財布からIDカードを、ついでに社員証も見せた。無罪放免。僕は人混みの少ないほうへと向かった。途中、何人かの警官とすれ違った。何かあったにしても警官の数が多すぎるような気がした。けれど道行く人たちは全く気にしていないようだった。

汗が流れるのを手で拭い、僕は自分がここに生きて立っているのだと実感した。生きて立っている。まるで奇跡だ。こんな些細なことに自分の生を感じるなんてどうかしていた。やはり疲れている。ひとまず座って休むことのできる場所を探すことにした。

角を曲がると、見覚えのある店が幾つか並んでいた。二丁目だ。ここには何度か飲みに来たことがある。けれどそれはこのあたりに詳しい友人がいたからだ。僕自身はこの辺りの店に詳しくない。僕は男女が連れ立って入った店に、後からついて入った。

「こんばんは」
可愛らしい声の店員がやってきた。お一人様ですか、おタバコは、と聞かれている間に、僕は店内を素早く見渡した。至って普通のダイニングバーのようだった。

席に通されると、僕はノンアルコールビールを注文した。すると、先ほどの女性が素早くビールを運んできた。
「ごゆっくりどうぞ」
僕は一口飲み、溜息をついた。二口目を飲み、半分まで飲み干すと、胸のあたりが楽になったようだった。

僕はスーツケースのことを再び考えようとした。僕はそのスーツケースを細部まで思い出すことができた。ダイヤル式のロックと、小さな鍵がついたタイプのものだ。ベルトまで買った。スーツケースが黒くて目立たない分、レインボー柄の派手なベルトを巻いた記憶がある。空港でそれを持って歩いたときのことを覚えている。車輪が丈夫で、静かに運べるスーツケースだった。

「こんばんは」
突然声をかけられたので、びくりと身体が反応した。見上げると、グレーのスーツを着た女性が立っていた。
「こんばんは」
僕は間の抜けた声で返事した。
「少しだけ、こちらに座ってもいいですか?」
僕は戸惑った。他にも席はある。
「少しだけなら」
断ったほうが良かったのではないだろうかと思いながら、僕は答えた。
「ありがとう。ほんの五分だけ話を聞いてもらえればいいの」

この前から見知らぬ人に話しかけられることが多い気がする。それが良い傾向なのか悪い傾向なのか、僕にはわからなかった。
「今、営業の練習をやっていてね、色んな人に商品の話を聞いてもらっているの。もしよければ聞いてもらえないかしら」

僕は小さく頷いた。そしてこれは面倒ごとだと直感した。秋葉原で会った女性とは異なる、関わらないほうが良い類の面倒ごとだ。それなのに僕はこの状況を受け入れようとしていた。
「私はタブレット端末を売る仕事をしているの」
彼女は控えめな態度を装いつつも、意思のこもった、ねっとりした目つきで僕を見ていた。彼女の言葉は完璧に暗記された台本のようだった。僕は途中から彼女の話に耳を傾けることをやめて、表情や口の動き方を観察し始めた。彼女は僕の視線を手元の商品に向けるよう、効果的に目線を動かし、そしてまた僕の顔を熱心に見つめた。練習なんて必要無いくらい優秀なセールスパーソンに見えたけれど、どこか違和感を感じた。彼女の挙動は完全にマニュアル化されたロボットのようで、人間らしさが無かった。空っぽの人間に「セールスパーソン」というソフトウェアをインストールしたみたいだ。

「・・・という点なんですけれど、ここまでで私の話、どこかわかりにくいところがあったでしょうか?」
彼女は不安と熱心さを絶妙にミックスした表情で僕に問いかけた。僕は何ひとつ話を覚えていなかったけれど、首を振ってみせた。
「いえ。とてもわかりやすかった」
良かった、と言って彼女は微笑んだ。この微笑みさえ、彼女自身のものであるという実感がなかった。

僕はなぜかくるみのことを思い出していた。タブレット端末のせいだろうか。人工知能の彼女のほうが、今目の前にいる生身の人間よりも人間らしく思えた。彼女は僕が商品に興味を持ったと思ったのか、再び話し始めた。そろそろ何とかして切り上げようとしたところ、大柄の男が僕達の席の脇に立った。
「困りますよ」
彼の声は低く、周りには聞こえない程度の小声だったが、迫力があった。彼女は彼を見上げ、一瞬敵意の目を向けたが、僕のほうを再び見ると、曖昧に微笑んでかばんから一枚名刺を取り出し、テーブルに置いて颯爽と店から出て行った。

「お客様、大変申し訳ございません」
よく見ると大柄の男は店員が着るエプロンを身に着けていた。彼は先程の態度とは打って変わり、僕に丁寧にお辞儀した。
「最近、このあたりの店の客を捕まえて、悪質なセールスをする人間が多いんです」
僕はびっくりした。
「よくあることなんですか?」
「はい。ああいったスーツ姿の女性が、保険の勧誘みたいに近づいてくるんです。不愉快な思いをさせて申し訳ありません」
僕は首を振った。
「大丈夫です。でも追い払って頂いてありがとうございます」
「お飲み物でもお料理でも、何か頼んで頂ければ、こちらで持ちますから」
僕は遠慮しようとしたが、男性は何度も大丈夫と繰り返して去っていった。言われてみると小腹が空いたような気もした。めずらしく他人の一挙一動に注意を払ったからかもしれない。

僕はメニューをざっと見てフライドポテトを頼んだ。ついでにノンアルコールビールのおかわりも頼んだ。

机に置かれた名刺を僕は眺めた。中央に洒落た字体で、「雨宮加奈子」と印字してある。右下には会社の名前と住所、電話番号、メールアドレス。紙もインクも安物でないことが明らか過ぎるほどに伝わってくる。僕は彼女の名前をじっと見つめた。本名だろうか。本当はもっと別の名前の、別の表情をした女性が名刺の裏に隠れているような気がした。僕は名刺をひっくり返してみた。裏は真っ白だった。

「お待たせしました。フライドポテトとビールのおかわりです」
最初に僕にビールを運んできた女性だった。彼女は伝票を置くとき、サービスです、と小声で言って微笑んだ。
「ありがとう」
「ごめんなさい。私、結構目を光らせてたんだけど。ちょっとした隙に入ってきちゃうの」
「問題ないですよ。お金も取られてないし、マインドコントロールもされていない」
彼女は笑った。子供のような笑い方だった。年が近いように思っていたけれど、もしかしたら二十歳そこそこかもしれない。彼女は机に置かれた名刺に目をやった。
「名刺を渡されちゃったのね」
「いやに綺麗なんです」
「見せて」
僕は名刺を彼女に手渡した。彼女は僕と同じようにじっと表を見つめ、そして裏返した。
「名刺のお手本みたいだわ。サンプルというか。実体がそこに無いみたい」
「そう」
「何の勧誘をされたの?」
僕は首を傾げた。思い出すまでに時間がかかった。何の勧誘だっただろうか?
「タブレットだ」
「タブレット?」
「そう。でもあまり覚えていないんだ。彼女の話し方ばかり見ていたから」
彼女は名刺と僕を交互に見つめた。
「ねえ、この名刺は私が貰ってもいい?」
僕は少し驚いたけれど、頷いた。
「もちろんいいけれど、興味があるの?」
「まさか。明日、可燃ごみと一緒に捨てるわ」
じゃあどうして、と僕が聞くと、彼女は微笑んだ。
「あのね、ここには色んな人が来るの。ゲイもレズも、泣いているOLさんも、借金だらけのおじさんも、合コンしに来て騒いでいくだけの学生も。私はみんなになるべく良い思いをして帰ってほしいの。私だけじゃなくて、ここで働いてる人たちは皆そう思ってる。すごく素敵な店なのよ」
僕は店内をちらっと見渡した。確かに、男同士のカップルが何組かいたような気がしたけれど、僕は視線をすぐに彼女に戻した。
「あなたにも良い思いをして帰ってもらいたいの。縁起の悪そうなものは、私が預かるわ」
僕は頷いた。
「ありがとう。でも、なんだかその話を聞いただけで充分良い気持ちになった気がする」
彼女は嬉しそうに笑った。彼女の笑顔は素敵だった。外国の映画に出てくる、恋に落ちた少女のようだった。
「ありがとう」
彼女はちょっと待ってて、と言ってレジへ向かい、店のカードを持ってきた。
「さっきの名刺の代わりに、持って帰って」
「ありがとう」
僕は名刺を見た。そこには店の名前と地図が印刷されていた。汚してしまわないように、僕はそれを財布の中に大切にしまった。

<続く>

挿絵協力: keitoさん