夜想曲「パンと空白」 最終章:肉体を持つもの

第28期(2016年8月-9月)

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慰霊碑の前にはあらゆるものが置かれていた。

缶ビールや缶ジュースが置かれているのはテレビでも見たことのある光景だったけれど、ぬいぐるみにアクセサリー、トランプやギターまで並んでいるのを見て驚いた。花束を包むセロファンがホールに吹く僅かな風を受けてさざなみのように揺れた。僕はそれを数メートル離れたところにあるテラスから、ぼんやりと眺めていた。

僕の左にはアズマが、右には金田が座っていた。ふたりとも静かに他愛のない話をしていたけれど、僕を気遣って時々こちらを見ているのがわかった。僕はそれをありがたいと思いながらも、慰霊碑から目を離せなかった。クリーム色と臙脂色が混ざったような色の石はつややかに磨かれ、孤独に佇んでいた。

一年経っても僕の記憶は戻らなかった。

不眠が改善されたおかげで(ラッキーのおかげだと僕もアズマも言い合った)僕は冬に復職したけれど、ある日突然職場で酷い痙攣に襲われて入院した。入院した一ヶ月間のことはうろ覚えだけれど、アズマと金田が頻繁に見舞いにきてくれたことが心の支えとなった。彼らが心配するほど僕は気落ちしておらず、リハビリしながら家でできる仕事を探そうかと呑気に考えていた。住む場所を変えるのも良いと思った。前向きな意味で、僕は自分の人生に対して開き直っていた。

僕は自分が崖から落ちたのだと考えるようになった。同じ崖を無理にもう一度登ろうとする必要はない。回り道して、歩ける場所を歩いていけばいい。そう考えるほかに、僕が生き残る術は無さそうだった。

ただその前に一度どうしても訪れておきたい場所があった。アズマが月に一度、祈りのために訪れている場所だ。もし彼にとって負担にならないようであれば、僕をそこへ連れて行ってくれないかと頼んだのだった。

最初はもちろん反対された。僕の身に何か起きたらどうするんだとアズマは何度も言った。入院したことでアズマは僕の行動を事あるごとに心配するようになっていたので、僕は自分の霊的な確信について彼に説明せざるを得なかった。

霊的な確信というのは、僕の失った記憶はちょっとやそっとでは蘇らないだろうということだった。入院生活のほとんどを眠りに費やし、金田やアズマと喋るときもほとんど夢心地だったけれど、僕は眠りながら心の一部が覚醒していくのを感じていた。白い光ような部分が心に生まれ、一定の面積を占めているのだ。そしてその一部が語りかけてきたのは、例え十年や二十年という歳月をかけたとしても、失われた記憶は思い出せるかどうかわからないということだった。本当に思い出さなければならない記憶であれば記憶のほうから僕に歩み寄ってくると医者は言ったけれど、その記憶は少なくとも、今の僕に語ることは何も無いということなのだろう。

僕はそのいささか迷信めいた話を、アズマに打ち明けた。上手く説明できたとはとても思えなかったけれど、アズマはその話を聞くと渋々頷いてくれたのだった。

慰霊碑の前に居座っていた数人の若者たちが去ると、アズマは立ち上がった。
「いってくる」
「いってらっしゃい」
金田は笑顔で見送り、僕はただ視線を合わせて頷いた。彼は慰霊碑まで歩いて行き、手を組むと頭を垂れた。

「累ちゃんは元気?」
「元気よ。そう、聞いて。今日はパパとお留守番してねって言ったら、たどたどしく『いってらっしゃい』って返したのよ」
僕は目を丸くして見せた。
「この前ようやく『ぶーぶー』が言えるようになったんじゃなかったっけ?」
「そうなの。『いってらっしゃい』って結構難しい言葉だと思うんだけど。びっくりしちゃったわ」
「子供の成長ってのは未知数だな」
「本当よね」

彼女の子供の話は、いつも僕らを和ませてくれた。寝返りを打てるようになった、歌うようになった。そんな話を聞くと僕たちは心の底から喜び、彼女と夫の苦労を労うのだった。

僕と彼女がぽつぽつと言葉を交わすあいだにも、慰霊碑には次から次へと人がやってきた。献花台に花を預けてすぐに去っていく人もいれば、アズマのように長く留まる人もいた。若者もいれば老人もいた。明らかに観光客らしい外国人たちも、厳粛な面持ちで慰霊碑の前にやってきては彼らなりのやり方で祈りを捧げていった。

ドーム状の講堂の中に、この慰霊碑は設置されていた。天井はガラス張りになっていて、そこから慰霊碑に光が注がれている。すぐ側を飛行機が飛んでいるはずなのに、怖いくらいしんとしていた。僅かな空調の音と固い床の上を歩く人たちの足音、そして花を包むセロファンの音が、静けさをより一層深めるようだった。

ここは祈りと憩いのために設けられた場所だった。厳重なセキュリティで守られていて、僕たちは入るために荷物検査と身体検査を受けさせられた。新しい空港は数キロ離れた場所に建設されたけれど、工事はまだ続いているという。

「すごい数の花だな」
僕がつぶやくと、彼女は頷いた。
「ずっと誰かがお供えにやってきて、絶えることがないんですって」
「すごいことだ」
「そうね。でもわかるような気もする。普通は亡くなると遺骨をお墓に入れるけど、ここで亡くなった人たちのものは何も残っていないから、お墓は空っぽなのよ。ここで祈ったほうが届くような気がするんじゃないかしら。私にとってもここはお墓のようなところだから」
彼女の声は低く、まだ深く傷ついているのだと思わせた。金田もアズマも僕を気遣うけれど、僕は彼らの抱えているものが見えないせいで、彼らを充分に気遣うことができていないような気がした。

喪服を着た老婆が現れ、ゆっくりとした足取りで慰霊碑に近付き、手を合わせた。

「付き合ってくれてありがとう」
僕が唐突に言うと、彼女は微笑んだ。
「こちらこそ。私もひとりではきっと来れなかったから」

僕は立ち上がり、アズマのいる場所に向かって歩き始めた。

アズマは小声でずっと祈りを捧げているようだった。僕はそんな彼を横目で見ながら、手を合わせた。慰霊碑はつややかな光を放っていて、自分の姿が映って見えるほどだった。

僕は何に祈ろうとしているのだろう。

この一年、僕はこれに関連するニュースを見ても何も感じなかった。何かを思い出すこともなかった。僕の記憶の扉はぴたりと閉ざされ、幾ら呼びかけてもこじあけようとしても、びくともしないことがわかっていた。それと同時にここが僕と切り離せない場所であることを、大樹のように揺るぎなく確信していた。

僕は目を閉じた。

僕はまず許しを請うた。思い出せないことを。誰の意思も引き継げないことを。自分のことしか考えられないことを。そして約束とは呼べないような誓いをたてた。もしいつか思い出すときがきたら、どんなにショックを受けても何かできることがあるはずだ。だから自分なりにそれを試してみせる。辛抱強く支えてくれたアズマと金田を、今度は僕が支えられるようになる。

目を開いたとき、僕は見えない死者たちがそこにいるのを感じた。闇に眠る、名前も顔も知らない無数の死者たち。この死の輪郭を明確にできない僕のことを、彼らはどう思うだろうか。

隣ではアズマが小声で祈り続けていた。

僕は一年前の夏に出会った女性たちのことを思い出した。彼女たちも何らかの形でこの悲しみに関わり、それぞれの思いを抱えているのだろうか。親族が、恋人や友人が、この中にいるのではないだろうか。例えいなかったとしても、このことに対して多少なりとも胸を痛め、傷ついたのではないだろうか。

僕はもう一度目を閉じ、今生きて悲しみを抱えているひとたちが少しでも癒やされるよう願いをこめた。

「主よ、私を平和の道具にしてください。
 憎しみのあるところには愛を
 分裂には一致を
 疑いには信仰を
 誤りのあるところには真理を
 絶望には希望を
 悲しみには喜びを
 闇には光をもたらすことができるよう、助け導いてください

 また慰められるよりも慰めることを
 理解されるより理解することを
 愛されるより愛することを望ませてください
 お互いに与え合い許し合い日々自分に死ぬことによって永遠に生きることを悟らせてください」

アズマの祈りはあまりにも途方のない祈りだった。けれど僕はもう一度、目を閉じずにはいられなかった。

僕らが去るまで、喪服を着た老婆は慰霊碑の前から動かなかった。

<終>

挿絵協力: keitoさん