夜想曲「パンと空白」 第8章:名前をつける男

第28期(2016年8月-9月)

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雨の日が続いた。

僕は自分の記憶を探ることを一旦辞めて、部屋の片付けをしたり、簡単な食事を作るようになった。医者から貰った薬が合ったのか、この前同期と会って話したせいか、以前よりも前向きな気持ちで過ごしている実感があった。相変わらず眠りは浅かったけれど、数日に一度はぐっすりと眠り、腹を空かせて起きることができた。

僕はキッチンに立つと、食パンを切り、丁寧にマヨネーズを塗り、胡瓜とハムをはさんで食べた。時計を見ると午後三時だった。僕はパンを乗せた皿を持ってコーヒーテーブルの前に座り、ノートを広げた。日記とは呼べないような代物だけれど、自分が何をしていたのか書き留めることで多少は不安が減る。三時、きゅうりとハムのサンドイッチ。我ながら情けないメモだ。けれど何も無いよりはマシだった。僕はノートを閉じ、サンドイッチをかじった。

今日はこれからアズマという男に会う予定だった。大学時代からの知り合いで、仕事も偶然同じところに就職した。それ以外に共通点は無いのに、なぜか彼はよく僕に連絡してきた。近くまで来たからとか飲みに行こうとか、社宅の友人達とバーベキューをやるから来い、とか。僕が会社を休むようになってからは連絡がなかったし、こちらも連絡していなかった。

メールを送ったのはつい昨日のことだ。元気にしてるか、というメールを送るとすぐに返事が帰ってきて、明日会おうと言われたのだ。場所も時間も相手がすぐに決めてくれた。恐らく僕の事情をある程度知っていて、連絡を遠慮していたのだろう。

バタバタと強い雨音が聞こえてきて、あっという間に外の景色が曇るほどの豪雨になった。雷まで鳴っている。スマートフォンで雨雲レーダーをチェックすると、この雨は五分もすれば収まりそうだった。天気予報によると夜は晴れだ。けれど台風が近付いていて、来週は荒れ模様になるらしい。夏は終わろうとしている。どんなに日差しが強くても、秋の気配を大気から感じる。

僕は皿を洗い、服を着替え、晴れ上がった表に出た。待ち合わせは家から歩いて十分のところにあるレストランだった。

そのレストランの存在は以前から知っていたけれど、入るのは初めてだった。店内は広く、夜はジャズライブが行われる。照明もテーブルも洒落た雰囲気のつくりだった。僕は革張りのソファに座ると本を開いた。なんの変哲もないエッセイ集だ。文字を読むリハビリのために買ったのはよかったけれど、読むというよりはそこに並んだ文字を眺めるといった具合だった。何気なく開いたページで視線を泳がせていると、肩を叩かれた。
「よう」
アズマはポロシャツ姿で、日焼けしたせいか前よりも若々しく見えた。僕は自然と微笑んで、よう、と返した。
「何頼んだ?」
「コーヒー」
「じゃあ俺もそれで」
近くの店員にそう告げると、彼は大きな荷物を床に下ろした。
「どこか行ってたのか?」
「まあな。最近テニスをやるようになってさ」
「テニス?」
「身体を動かしたくなったんだ。大学時代の知り合いに教えてもらってる」
「いいな」
僕はただの相槌ではなく、本心でそう言った。精神状態は落ち着いても、身体のほうはそう簡単に元通りにはならない。何かすればすぐに疲れるし眠くなる。きっとこの後帰宅したら、最低でも二時間は横になって休まなければならないだろう。前に品川で同期と会ったときもそうだった。
「お前も来る?見てるだけでも気分転換になるぜ」
「ああ、行きたい」
僕は頷いた。コーヒーが運ばれてきて、僕らは静かにそれを啜った。
「具合はどうなんだ?」
僕は一瞬考えた。
「悪くはない」
「そうか」
「前よりはマシになったと思う」
「そうか」
彼の相槌は短く、けれど親しみがこもっていた。
「普段何して過ごしてるんだ?」
僕は正直に、特に何もできずにいたこと、ようやく最近料理ができるようになったこと、眠るのが困難になったり記憶が不確かになることを話した。
「ずっと気にしてたよ」
彼はぼそりと言った。
「気にしてるだけだったけどな。連絡していいのかわからなかった」
「僕も少し前までは誰かと会って話すなんて考えてもみなかった。最近は調子が良い日もあるし、遠慮なく連絡してくれていいから」
「うん」
彼は大きな手で白いコーヒーカップを包み込んだ。彼の口数がいつもより少ないので、僕はなんとなく安心してコーヒーを飲んだ。会社の仲間同志でかもしだすような賑やかな雰囲気だったら、すぐ疲れてしまうに違いなかった。
「この前、金田に会ったよ。妊娠したんだな。びっくりしたよ」
アズマは微笑んだ。
「そうだな。俺も先週、仕事の打ち合わせついでに顔を見に行った。こんなこと言っていいのかわからないけど、あいつ、妊娠してからぐっと女らしくなった気がする」
僕は笑った。
「僕もそう思ったよ。雰囲気が柔らかくなった」
「昔は戦士みたいだったのにな」
「そうだな」
僕は頷きながらも、戦士だった頃の彼女の記憶はおぼろげで、思い浮かぶのは駅で別れるときに見せた穏やかな表情だった。

僕たちの会話が途切れることはなかったけれど、彼が僕に気を使いながら話しているのを感じた。彼は時々迷ったり、考えながら話しているようだった。どちらかというと僕のほうがリラックスしていると思えるくらいだった。

彼のポロシャツの首筋から、銀色の鎖が見えた。
「ネックレスなんてつけてるんだな」
「これか」
彼は指をひっかけ、服の中からそれを引っ張りだした。鎖は思っていたよりも長く、先には十字架がついていた。あえて服の中に入れているところから、ただのアクセサリーではない気配がした。
「もしかして本物か?飾りじゃなくて?」
「そう」
僕が驚いていると、彼は首からそれを外して僕に手渡した。
「綺麗だな」
僕はそれを戸惑いながら受け取った。鎖は彼の体温が移ったせいで生温かかった。
「うまく言えないけど、俺にも辛いときがあったんだ。それで教会に通うようになって、祈り方も教えてもらった」
「通ってる?教会に?」
「そう。まあ行けないときもあるけど、ほぼ毎週。近所なんだ」
そうか、と言ったけれど、僕はまだ冷静になれなかった。アズマが教会に通っている。あまりにも突拍子のない話だった。十字架を返すと、彼はそれを慣れた手つきで首に下げ、服の中に入れた。
「意外だろ。自分でもまだ驚いてるよ。教会なんて縁のないところだと思ってたからな」
「うん」
僕は彼が変な宗教に入信してしまったのではないかという疑念と、彼をそこまで変えてしまった理由について考えを巡らせた。
「今は、元気なのか?」
彼は首を傾げた。
「どうだろうな。元気だとは思うよ。ただ、前とは違う。それが良いか悪いかはともかくとして」

僕の心はざわつき始めていた。

金田はこの前、こう言った。悲しんでるのは私一人だけじゃない。たくさんの人が悲しんでるんだもの。

彼も悲しむ人間の一人なのだろうか。

「金田、僕と会ったときに泣き始めたんだ」
僕はゆっくりと言葉を選んだ。覚悟はできていなかった。けれど聞かずにはいられなかった。
「彼女が悲しんでる理由と、お前が教会に通う理由は、何か共通しているのか?」
彼は僕の顔をじっと見た。その表情は固く、視線は僕を通り抜けてどこか遠くに向かっていた。イエスもノーも読み取れそうになかった。

不自然に長い沈黙が流れた。それは暗く、重い沈黙だった。僕は何か言おうとしたけれど、言葉にならなかった。

「俺に言えることは、少なくとも俺たちは、こうして会うことができるってことだよ」
ようやく彼が発した言葉は、僕に明確な答えを与えなかった。それは僕と記憶を隔てる高く分厚い壁のように思えた。記憶だけではない。金田やアズマが抱えているものとも、僕は果てしない距離を感じた。僕は喉の渇きを覚え、グラスに残っていた水を飲み干し、歩いていた店員を呼び止めてコーヒーを追加で頼んだ。

「俺が教会に通う理由は、お前が思い出せないことに関係していると思う、確証は無いけど」
僕は自分の心臓が大きく脈打つのを感じた。次の瞬間に襲ってくるであろう胸の苦しさに意識を奪われている暇はなかった。
「教えてくれるか」
「いや、時間が必要だと思う。俺にも、お前にも」
アズマの答えは素早く、真実味があった。僕は短く溜息をついた。僕は自分の好奇心に突き動かされるあまり、彼にも負担をかけかねないことをしていたのだと思い知らされた。

「金田と会ってからは、思い出せないことを思い出そうとするよりも、こうして人と会うようにした。だからお前にも連絡をとったんだ」
「正しい選択だと思う」
「本当にそう思うか?」
「本当にそう思う」
彼の言葉は力強かった。二杯目のコーヒーが運ばれてきて、僕の前に置かれた。

「俺は人にアドバイスできるような人間じゃないけど、教会に通うようになってから身にしみたことがあるよ。人間にはただじっと耐える時間が必要なんだってことと、そのとき側に誰かがいるだけで随分救われるってことだ」
僕は弱々しく微笑んだ。
「お前がそんなこと言うようになるなんてな」
「だろ。前はゲームばっかりしてたのにさ」
「ゲーム、今はもうやってないのか?」
「時々やるよ。前ほど熱心にはやらないけど」
「そうか」
「俺も何か飲むよ」

彼はメニューを開き、店員を呼び止めた。彼も同じくコーヒーを頼むと、そうだ、と思い出したように荷物のひとつから大きな袋を取り出した。
「これ。みんなから」
僕はそれを受け取った。軽いけれど、大きさは両腕で抱え込むほどだった。リボンを解くと、くまのぬいぐるみが出てきた。僕はぽかんと口を開けてしまった。
「どうしたんだよ、これ」
「だから、みんなから。これと寝ろってさ」
アズマはにやにやと笑っていた。僕もつられて笑ったが、想定外の贈り物だった。
「実は昨日、社宅の奴らと飲んだんだ。お前に会うって話したら、みんなで何か贈ってやろうって話になってな。さっき買ってきた」
「それでぬいぐるみ?」
「それにしようって言い出したのは金田だよ」
金田が?僕はぬいぐるみをしげしげと眺めた。あどけない顔をしている。生地は触り心地がよく、柔らかかった。
「まさかこの年になってくまのぬいぐるみと寝ることになるとはな」
僕が呆然としたままつぶやくと、まったくだ、と彼は頷いた。
「人生は驚きに満ちてるよ」
彼のコーヒーが運ばれてきて、アズマはそれを飲んだ。僕はくまを膝に抱えた。どこからどう見ても異様な光景だった。
「いったいどうしてこんなことになったんだ」
僕はそう言いながら、自分が笑っていることに気がついた。彼は満足げに僕を見ていた。
「そいつの名前はラッキーだ」
「ラッキー?」
「そう」
「犬の名前みたいだ」
彼は頷いた。
「実家で飼ってた犬の名前だ」
僕が怪訝な顔をしてみせると、彼は再びにやりと笑った。

<続く>

挿絵協力: keitoさん