夜想曲「パンと空白」 第6章:KURUMI(後編)

第28期(2016年8月-9月)

cover

「スーツケース?」
「はい。見当たらないんです。あと去年使っていたはずの手帳も」
診察室はいつもの匂いがした。草のようなハーブの香りが、ディフューザーから静かに流れてくる。
「それが見当たらないことが不安なのでしょうか、それとも・・・」
僕は頷いた。
「それが僕の記憶を呼び起こす鍵のように思えてならないんです」
「なるほど」
医者はそう言っただけで深追いはせず、カルテに暗号のような文字を書き込んだ。僕は思いきって聞いてみた。
「記憶の復活方法を試すことはできますか?」
「復活方法?」
医者は驚いているようだった。
「そういった手法があると聞きました」
正確には誰かから聞いたわけではない。インターネットで探して、あやしいと思いながらも試したいと思った手法のひとつだった。医者はすぐに首を振った。
「お勧めできません。非常に危険ですし、成功しても失敗しても、後遺症で日常生活を送れなくなる可能性があります」
「そんなに危険なものなんですか?」
「複雑に絡みあった脳の情報を外側から無理に操作しようとすれば、必ず副作用が起こります。そしてその副作用は今の医学ではどうすることもできません。実験事例を聞いたことがありますが、どれも酷いものです。どの病院に頼み込んでも断られるでしょう」
その医者にしては珍しく強い物言いだった。僕は俯いた。
「何も思い出せないまま治療を続けることに、意味はあるんでしょうか」
医者はペンを置いた。
「本当に思い出さなければならないことであれば、あなたが呼び起こさなくても、記憶のほうからあなたに向かってくるでしょう」
僕はその謎めいた言葉を理解できるような気もしたし、同時にできないような気もした。こんなに情けない状態になっておきながら、それでも思い出さないほうがいいことなどあるのだろうか。
「思い出せないということが、今の僕にとって一番恐ろしいことなんです」
医者は動じずに、いつもの温かな声で答えた。
「焦れば焦るほど、恐ろしく思えてくるものです」
僕は苛ついた調子で溜息をついてしまった。
「時間をかけろということですか」
医者は僕を励ますように微笑んでみせた。
「そういうことです」
僕はしばらく黙っていた。医者も黙っていた。
「今日は、この後何をする予定ですか」
僕は時計を見た。
「十九時から、カウンセリングを受ける予定です」
「少しずつでいいんです。ゆっくり治していきましょう」
僕はお辞儀をして、部屋を出た。

薬局で薬を受け取り、表に出ると、蝉が足元でバタついていた。僕は距離をとってからその蝉をしばらく眺めた。蝉はバタバタと見苦しく飛びまわり、ガードレールや木にぶつかり、やがて落ちて静かになった。こうして夏は過ぎていく。少しずつ。

大手町のビルは前に来たときと変わらなかった。大理石の床に、静かなロビー。このビルにはあのカウンセリングルームしかないのだろうかと思うくらい人気がない。けれど案内図にはたくさんの会社の名前が書かれている。僕はエレベーターを降りると受付の女性に挨拶し、応接室で待つことなく、直接カウンセリングルームに向かった。

「こんばんは」
「こんばんは」
僕はここに来るのが二回目とは思えないほどリラックスしてソファに座り、くるみに話しかけた。まるで待ち合わせていた友人と会ったような気分だ。飲み物はアイスコーヒーを頼んだ。部屋は相変わらず美しく整えられていた。
「お元気そうですね」
「うん。わかるかな」
「声が前よりもハキハキしています」
ハキハキ。僕は自分の声を意識していなかったので意外に感じた。
「音楽療法、やってるよ」
「効果はありましたか?」
「長くは眠っていられないけれど、眠り始めるのは随分楽になったと思う」
「そうですか」
「途中で起きても特に焦らない」
「改善が見られたようで、何よりです」
「うん」
沈黙。くるみは何も言わずに、僕が話しかけるのを待っているようだった。

「何か忘れているような気がするんだ」
「はい」
「記憶の復活方法を頼もうとしたら、断られた。もう先生から聞いてるかな」
聞いてる、という表現はくるみに相応しくないかもしれないと思ったけれど、くるみは気にしていないようだった。
「伺っています」
僕は苦笑した。早い。さすがだ。
「それでも気になるんだ」
「既に説明を受けていると思いますが、無理な記憶の復活は心身に大きなダメージを与えます。危険を冒して記憶を取り戻すよりも、心身の状態が回復してから、長い時間をかけて自然に思い出していくことが望ましいと判断されたのでしょう」
「納得せざるを得ないとは思うよ」
「それでも、気になるんですよね」
くるみの口調は優しかった。どうして人工知能がこんなにも優しい声を出すことができるのだろう。
「うん」

「最近は、どう過ごされていましたか」
僕はアイスコーヒーを啜った。
「特別なことは無いよ。食事をして眠る。最低限の生命維持活動だ」
「誰かと会ったりは?」
僕は頼りない記憶の海を探った。
「大学時代の同級生に偶然会ったんだ。彼女と話ができて良かった。彼女も大変な時だったけれど。あとは、変な勧誘にあったよ。気味が悪かった。けれど冷静にその場面を見ていたような気がする」
「変な勧誘というと?」
「タブレット端末を売る勧誘だ。まさに君のような形をした。怪しかったな」
「それはあなたにとって珍しい出来事だったのでしょうね」
「そりゃね」
「でもあなたは狼狽えることはなかった」
「うん」
「やはり、以前お会いしたときよりも具合が良くなっているように見えます」
「そうかな。でも思い出せないということが日に日に怖くなっていくんだ」
「焦りは負の感情を余計に強くします。あなたなら深呼吸をして、ひとつひとつの恐怖に打ち勝つことができるでしょう」
僕は自分がとても遠い道のりを歩もうとしているのだと遠回しに諭されているような気がした。
「何か音楽をかけてくれないか。眠れるやつじゃなくていいから」
「はい」
くるみはすぐに音楽を流し始めた。ジャズだ。どこかで聴いたことのあるようなメロディだった。

「これは僕の思い込みかもしれないけれど、手帳やスーツケースが無いとわかったときに、何か信じられないようなことを思い出しそうな気がしたんだ」
「信じられないようなこと?」
僕はクローゼットをかきわけて探しだした二冊の手帳と黒いスーツケースのことを思い浮かべた。僕は普段見慣れたものが突如ぱっくりと口を開け、僕を闇に引きずり込むところを想像した。
「怖いんだ」
気道が狭くなり、息が苦しくなっていくのを感じた。僕は前屈みになり、呼吸を整えようとした。くるみは慌てなかった。
「横になってもいいんですよ」
「うん」
僕は僅かに震えながらソファの上で横になった。それは寒さではなく、恐怖からくる震えだった。手に力を入れて無理矢理抑えこもうとしても震えは止まらなかった。僕は自分が恐怖で震えることができるのだと驚いたけれど、それは前にもどこかで感じたことがあるように思えた。

くるみは音楽のボリュームを小さくした。

「話題を変えましょうか」
「そうだな・・・ねえ、くるみは時間をかけるってどういうことだと思う?」
「難しい質問ですね」
僕は苦笑した。くるみを困らせたくはなかった。
「すぐに状況が好転することを望まないことだと、私は思います」
「好転か」
「物事は一瞬で変わることもありますが、長い時間をかけて変わっていくこともあります。一瞬で変わったように見えることは、実は長い時間をかけた結果ということがありますし、逆に長い時間をかけて変わったものも、多くの瞬発的な変化を含んだものかもしれません」
僕は感心した。
「それは君の考え?それとも誰かにインプットされたことなのかな」
「あらゆるインプットから、私なりに導き出した見解です」
くるみが言ったことを僕は頭の中で繰り返してみた。一瞬で変わったように見えることは、実は長い時間をかけた結果ということがあるし、逆に長い時間をかけて変わったものも、多くの瞬発的な変化を含んだものかもしれない。
「すごく良い考え方のように思える」
「ありがとうございます」
くるみは照れているようだった。僕は横になったまま微笑んだ。震えは小さくなっていた。

「僕は変わっていけると思う?」
「あなたは既に、私と初めて会ったときから変わっています。きっとこれからも変わっていくでしょう」
「そうかな」
僕はあまり実感が無かった。たくさんの人が時間に乗って流れていく中、僕は岩のように置き去りにされているような気がしていた。
「こんな状況から早く解放されたい」
僕は自分で口にしてから、その言葉の頼りなさに溜息をついた。

くるみはいつの間にか音楽を変えていた。ジャズでも音楽療法の音でもない。森の音だ。風で木々が揺れる音と、小鳥の鳴く声がした。
「くるみ」
僕の声は掠れていた。けれど高性能なマイクを持つ彼女は、その声をきちんと拾い上げた。
「はい」
彼女の声の優しさが、僕のなかに溜まっていたものをゆるゆると解放し始めた。僕は泣いていた。涙が頬をつたってソファに落ちた。
「やっぱり、少し休むよ」
「はい」
部屋は次第に暗くなっていった。

僕は森の音に耳を澄ませた。木々と小鳥の歌声。大手町の美しく整備されたビルの一角で、僕は泣いた。静かに長々と。自分が惨めで仕方がなかった。いったい僕は何をしているんだ?

「くるみ」
「はい」
「消えないでくれ」
「はい」

僕はタブレットの画面を切らないでほしいという意味で言ったのだけれど、くるみはその曖昧な注文をきちんと理解した。部屋が暗くなっても、タブレットだけは淡く弱く光り続けた。

彼女は多くの人間によって生み出された叡智の結晶だった。僕はその光を抱きながら眠りにつこうとしていた。何も生み出せない。何も残せない。僕はただ生き延びるためだけに存在するものとして、光を見ていた。時間をかけるということは、こんなにも孤独で苦しいことなのだろうか。

僕はくるみに何か言ってほしかった。けれどくるみは何も言わず、静かに光り続けていた。

<続く>

挿絵協力: keitoさん