夜想曲「パンと空白」 第4章:白いブラウスを着た女

第28期(2016年8月-9月)

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馬鹿だ、と僕は心の中で自分に向かって毒づいた。目の前には下品な色をした看板が光っていた。

男性客に女性を添い寝をさせるという怪しげな店の前に、僕は立っていた。オプション料金を支払えば「できること」が増えるという。スーツを着た店員が、僕のすぐ側にいる男に入店を勧めていた。喋り方がいやに丁寧で、それが彼の胡散臭さを際立たせていた。それにしても彼はどうしてこんなに暑い中、黒いスーツなど着ていられるのだろう。僕は見える景色にも自分自身にも嫌気がさして、その場を離れた。

ろくに知らない女性と一晩寝ても何かを得られるとは思えなかった。この前秋葉原で会った女性にも似たようなことを言ったはずだ。もちろんあの時と状況は違う。けれど今ここで自分の虚しさを増長させる必要はないはずだ。

駅へと向かう途中、ふと川端康成の「眠れる美女」という小説を思い出した。薬で眠らせた若い女に、老人の添い寝をさせる奇妙な小説だ。日常生活のあらゆることを忘れるくせに、こんなことだけは思い出す。いつ読んだ小説だっただろうか。

僕は暗い下り坂で立ち止まった。息が上がっていた。僕は自分の左胸に手をあて、心臓に語りかけるように呼吸した。何をそんなに考える必要がある?記憶をほじくり返して何になる?

暑い。渋谷の暑さは異常だった。平たい胸にかいた汗が、ずるずると腹へと流れ落ちる。僕はかばんの中からペットボトルを取り出し、残り僅かだった水を飲み干した。

帰って無理にでも眠るべきだ。そう思ったとき、夜道に白いブラウスを着た女性が浮かんで見えた。どこかで見たことのあるシルエットだと思って目をこらすと、大学時代の同級生だった。

「うそ、びっくりした」
声をかける前に彼女のほうが僕に気づき、声を上げた。
「久しぶりだな。仕事帰り?」
彼女は曖昧に頷いた。
「まあそんなところ。あなたは?」
僕は一瞬迷ってから、頷いてみせた。
「まあそんなところだ」

僕らは簡単に近況報告しながら歩いた。どこに住んでいるのか、大学時代の友人たちとは会っているか。話していると、僕は彼女があまり元気でないことに気がついた。昔は明るく、よく声を上げて笑っていた。けれど今の彼女は疲れていて、どことなく遠慮がちな態度だった。交差点に差し掛かって僕らが足を止めたとき、彼女はねえ、と切り出してきた。
「一杯だけ飲んでから帰らない?」
僕は少し驚いた。
「もちろんいいけれど」
「さっきバーの看板を見かけたの。飲みたくなってきちゃって」
そこで彼女はようやく、以前の彼女らしい笑顔を見せた。僕は頷いた。
「行こう」
「ありがとう」

小さなバーに入ると、僕達はそれぞれジン・トニックを頼んだ。彼女はそれを水のようにごくごくと飲むと、グラスを置いた。
「実は、仕事帰りなんかじゃないの。彼氏と別れてきたの」
僕は思わず彼女を凝視してしまった。彼女はとても落ち着いた表情をしていた。
「本当に?」
「本当に」
僕はかけるべき言葉を探したけれど、案の定何も思いつかなかった。
「こういうとき、お疲れ様って言うのはおかしいかな」
彼女は笑った。
「おかしくないわ。疲れたもの。ものすごく」
彼女はものすごく、という言葉に強烈なアクセントを置いた。
「お疲れ様」
彼女はほんの僅かに目を潤ませて、ありがとう、と言った。

僕らはそれ以降その話題には触れずに、お互いの近況について話し続けた。彼女は大学を出て製薬会社で勤めた後、アメリカの大学に入り直して心理学を学んだという。
「じゃあ、今はそういった仕事をしているのかな」
「そう。カウンセラーの育成をしているの」
カウンセラー。僕はくるみのことを思い出して、口をほころばせた。
「何?」
「いや」
僕は少し間を置いたあと、この前カウンセリングを受けたことを打ち明けた。
「ごめん。さっき、嘘を吐いたんだ。仕事帰りじゃない。僕は仕事なんか行ってないんだ。医者に通ってるし、カウンセリングも試してる」
すまない、と僕が言うと、彼女はにやりと笑った。
「何か怪しいと思ってたわ」
僕らは結局、もう一杯ずつジン・トニックを頼んだ。

「あなたは順調に過ごしてるんだと思い込んでた。大きな会社に入ったし、可愛い恋人がいるって聞いてたから」
「恋人?」
僕はびっくりして聞き返した。逆に彼女は僕の反応にびっくりしたようだった。
「そうよ」
「どんな?」
彼女は戸惑っているようだった。
「誰かの話と間違えたかしら、私」
「いや、きっと違う。僕が思い出せないだけなんだ」
彼女は真顔で僕を見つめた。
「思い出せない?」
「そう。昔のことも、今のことも。記憶がぶつ切りに途切れている」
僕たちの間には沈黙が流れた。

「それが仕事に行けない理由?」
「それだけじゃない。他にもある。でも原因が思い当たらないんだ」
彼女はジン・トニックを飲むとグラスを置き、おしぼりで手を拭いて、左手を僕に差し出した。
「握って」
彼女の声は優しく、それでいて有無を言わせない強さに満ちていた。僕は言われたとおりにその手をとった。小さくて柔らかい、温かな手だ。僕は不意に泣きそうになり、より強くその手を握った。
「大丈夫よ」
「ごめん。君も疲れてるのに」
「あなただって疲れてる」
僕は頷いた。

「君の話をしてもいい?」
彼女は微笑んだ。
「もちろんよ」
「どうしてカウンセラーを育てる仕事をしようと思ったの?」
彼女は首を傾げてみせた。
「最初はそんなことしようなんて微塵も考えていなかったわ。ただ、私は人の話しを聞くことが得意なんじゃないかって働きながら気付いたの。昔は営業の仕事をしていたけれど、売るというよりはひたすらお客さんの話を聞き続けていた。それで喜んでもらえることが多かったから。でもその人たちはね、とても渇いているの。まるで砂漠よ。どんなに水を注いでも、彼らは満たされないの。それは悲しいことだったし、同時に不思議だった。だから勉強したくなったのね。そういった渇きの構造を」
「君は渇くことがないの?」
彼女は首を振った。
「まさか。私だって砂漠よ。でも、訓練するの。渇いた自分に、自分で水をあげる訓練を」
僕は恋人と別れたばかりの彼女に慰められている自分を恥ずかしく思った。けれど彼女の手を離すことはできなかった。
「僕はこの状況を変えたい」
彼女は頷いた。
「できるわ」
彼女は右手でジン・トニックを飲み、僕は左手で飲んだ。

「カウンセリング受けてどう感じた?」
「話すのは楽しかった。結果として悪くはなかったと思うけれど・・・」
「けれど?」
「何かが明確に改善したとは思えなかった」
彼女は思慮深げに頷いた。
「一度や二度のカウンセリングで全てが解決するようなことは、ほとんどないの。でも時間をかけて勝ち得たものは、簡単に失うことはないわ」
「僕は見当違いのことばかり試しているような気がするんだ。カウンセリングや投薬治療じゃなくて、何かもっと別なことが必要な気がする」
彼女は優しく微笑んだ。
「まず落ち着いて。自分に足りないものではなく、自分が既に持っているものを知るのよ。よく自分を見て」
「見る?」
「そうよ」
僕は自分の身体を見た。白いポロシャツに、いつものジーンズ。
「また会って話しましょう。時間はたっぷりあるんだから」

僕らは二杯目のジン・トニックを飲み終えると、店を出た。
「ありがとう」
僕は心から礼を言った。彼女は首を振った。
「あなたと話せてよかった」
「今度は君の話を聞く」
「ありがとう、でも今夜のことなら大丈夫よ。別れたいと思っていたのに、なかなか決心がつかなかったの。これで肩の荷が降りたわ」
「本当に?」
彼女は弱々しく微笑んだ。
「最初はすごく上手くいってたのよ。でももっと愛されたくて、彼をどんどん甘やかすようになった。気がついたら彼は出会ったときよりもずっと頼りがいのない人になっていたわ。私が彼を変えてしまったのよ。もっと早く別れるべきだった」
「君といると甘えたくなる気持ちは、なんとなくわかる」
「カウンセリングの勉強をした人は、仕事以外の人間関係でも頼られがちになるわ」
「気をつけるよ」
彼女は笑った。朗らかな笑顔だった。僕らは駅まで手をつないで歩いた。

別れ際、僕はどうしても気になっていたことを聞いた。
「なあ、僕の恋人の話、どこまで覚えてる?」
彼女は首を傾げた。
「恋人がいたと聞いただけで、詳しいところまでは覚えていないの。でも、本当に誰かの話と間違えたのかもしれないわ。飲み会での話だったし」
「気になるんだ。僕は何かとんでもないことを忘れて生きているような気がする」
「怖いのね」
僕は頷いた。僕は初めて自分の中にある恐怖を認めた気がした。彼女はつないでいた手にもう片方の手を乗せた。
「落ち着いて。時間をかけて。きっと少しずつ解決していくわ。氷が溶けていくみたいに」

僕は家の最寄りからひとつ手前の駅で電車を降りた。エアコンの冷気をたっぷりと浴びたおかげで僕の肌は冷えていた。けれど十分も歩かないうちに、首や胸から、汗が流れ落ちてきた。僕はその汗を不快に感じなかった。自分はこんなに空っぽなのに、まだ生きているのだと実感した。

恋人がいたと彼女は言う。別の人間の話と聞き間違えた可能性も充分ある。けれど僕はそれが自分の欠落した記憶を埋める鍵なのではないかと思い始めていた。僕は歩くスピードを上げ、次第に走り始めた。家につくと、僕はクローゼットの中の服を全てベッドに放り出し、奥にあったダンボール箱を引っ張りだした。中には仕事で使ったノートや書類などが入っている。そのうち二冊のノートはスケジュール帳だった。僕はページをめくった。慌てていたせいで時々紙を歪ませた。会議、出張、飲み会。結婚式の二次会、社外の勉強会。イベントはどれも似たり寄ったりで、何もヒントらしきものはなかった。時折時間だけが、あるいは場所だけ書き込まれていた。最後のページまで丹念に調べてみても、思い出せることは特に無かった。

僕は溜息をついた。焦りすぎている。Tシャツがべっとりと身体に貼りついていた。僕は洗面所に行って顔と手を丁寧に洗い、台所で水を一杯飲み干した。僕は再び左手を胸にあてた。心臓に語りかけるように。彼女に言われた「落ち着いて」という言葉を、手のひらから心臓に送りこむように。

<続く>

挿絵協力: keitoさん