ワレモノ注意、カップ・アンド・ソーサーの退屈

第30期(2016年12月-2017年1月)

≪アメリカのANTHROPOLOGIEで購入した白鳥のプレートと、スウェーデンのRorstrandのカップアンドソーサー≫

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器に初めてはっきりと憧れたのはたぶん、シルバニアファミリーの食器セットに触れたときだった。

あの小さくて、完成された可愛いものは大人だけに扱うことが許された品物の香りがして、そっと胸を熱くしたことを今でも思い出せる。可愛いけど本当のものは簡単に割れてしまいかねない。それでもいいから本物が欲しいなあ。
その時覚えた強烈なときめきは、今度はお母さんが自分の好みで集めたお客様用のカップ・アンド・ソーサーに向けられることになる。滅多に取り出されることがないから、私の記憶のなかではずっと食器棚に美しく並んでる姿ばかり。
「特別であること」とは、そのお客様用のカップ・アンド・ソーサーのようなことなのだと思った。その時点で私の知っている美しさは、「うやうやしく」「儚い」ものだけだったのだ。

それらはマグカップようには毎日使われない。
滅多なことをして欠けてしまったらいけないから。それはお客様用のものだから。
私は密やかに、でもはっきりとそれを独り占めしたいと思っていた。できるだけなんでもない日に楽しみたい。できるなら、自分だけの幸福のために。私にとって器は小さい頃に集めていた色とりどりのビービー弾みたいに、はっきりとした理由もなくただただ綺麗だから持ち帰りたいというだけで夢中になれるものだった。
馬鹿みたいな真面目さをもって美しいものとふたり、誰にも介入されない場所で向かいあっていたかった。
カップから目を離せなかったあの一瞬無音になるような関心を、情熱と呼ぶのは大袈裟だと言われてしまうのかな。

そんな私の欲望は、海外の蚤の市を旅するごとに爆発することになる。
郊外の公園や街の広場で見つけたどれもが使い古されて、ちょっとした難があって、見たことないくらい美しい絵付けがされていた。そして、びっくりするほど安かった。とくにベルリンのマウアーパーク蚤の市は宝物島みたい。価値なんかあるものか、という顔でガラクタのように食器を扱っていたおじさんたちから、家でどう使っていたかまで話してくれるおばさんたちから、へとへとになるまでの集中力で選び買い取った長旅の食器たちが今は私の窮屈な食器棚に無造作に重ねられている。

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古い器は、過去の記憶の結晶のよう。
だから、それを好んで集めている私は記憶のコレクターでもある。
絵柄の掠れて消えてしまったところから溢れる歴史の気配や、現実に手のひらに感じる重み、茶渋で目立ってしまっている無数に入った貫入に、私は半ば勝手にじぶんの記憶を重ねる。
ある食器の青を見れば昔から好きだった「ピーターラビット」のお話の淡々とした美しさを思い出す。
ピーターラビットの世界に広がっていた、人間のように生きる動物たちがみせてくれた心地よい孤独と優しい自由を今でも追いかけている、なんて言ったらみんなはびっくりするのだろうか。

大嫌いな学校からやっとの思いで帰宅した日、用意されていたお母さん手作りのケーキの胸の詰まるような安心を思い出させるお皿もある。
安心すると心細さのほうが倍になるのは、なんでだろう。しとしと降りだす春の雨が瞬く間に一面じわっと湿らせるような心の動きまで思い出す。ほっとするのに、「戦わなければいけない」であろう次の日を思うと耳を優しくふさがれるようで心許なかった。
おばあちゃんちの無造作な食器棚でほこりをかぶった漆塗りの朱を連想させる益子の器も、昔住んでいた町に雪がしんしんと降る景色、としか言いようのない白のフランスの器も。器は個性をあらかじめ持つスクリーンみたい。