People以上、Person未満

第31期(2017年2月-3月)

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どうにも、殺風景な写真ばかりを撮ってしまう。
 
 
 
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日々行き来する様々な通り道の中に、幾つかの「定点」を見つけて、そこを通りかかる度に撮り続けている。切り取られた画角の中に於いては、各時間帯の光や天候の具合など、固定された場の状況の変化だけが抽出され、それらを見つめ続ける感覚になる。その在り方は場面転換の入らない舞台装置に似ていると思う。
 
おおよそ、それらに写っているのは通常のスナップ等と比べると、人なり物なり、在るべき主体としての対象が無い、「ものたりない」印象の写真ばかりになってしまう。それは役者不在の舞台や食べ物の盛られていない器みたいなものかも知れない。僕のものの見方として、本来は背景として扱われる側を主体にしたいという想いもある。納まるべき対象が抜けた状況は、背景の存在感を少し前に押し出して主体性を纏わせて見せてくれている様な気がする。
 
 
 
オープンなSNSへの投稿を開始した頃、そこに慣れて行くためにも、何かしらを書き続けるクセをつける必要を感じて、その日の最後に降り立った駅名と到着時刻を「午後10時45分 吉祥寺」という様に記して投稿するというルーティンを始めた。特にタイトルは記していないけれど、自分の中ではこれを「着駅log」と呼び、プライベートなタイムカードの様な位置づけで、電車での移動のあった日には必ず行う投稿として現在も続けている。(この投稿が滞ると知人達から心配されるという出来事が何度かあって、案外、多くの人から見られている事を知った。)
この「着駅log」は、当初はテキストのみだったものに、ある時期以降は写真を添付するようになった。降り立った駅前の風景や、目についた何かをピリオドを打つ様に、スケッチする様な感覚で撮り留めていた。ルール上、ほぼ毎日必ず投稿する物なので、撮るべき物が見いだせない事もある。そのような時もノルマとして半強制的に撮る様にもしていて、気がつくと所謂「千本ノック」的なルーティンになっていた様で、「撮る」ための瞬発力や「状況の有り合わせ」で対象を見つけ出す底力がついた気もする。「なにがなくとも」撮るべき何かは視点の軸を変えながら見つけ出す。目に映る「日常」の機微や些細な様々と「表現」を繋ぐ様な在り方のルーティンだと捉えてもいて、そのバランス感覚が気に入ってもいるし、僕の性質に合っている方法だとも思っている。
 
 
 
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日々撮り続ける写真の多くは、自分の生活圏の絡みもあって、東京の街の様子を捉えたものが圧倒的に多い。東京は日本で最も、いや、世界有数とも言える位、人口密度の高い今日的な都市でもあるので、当然、人の往来が絶えない場所で撮っている事が多くなる。にも関わらず、撮り始めた当初は画角に人物が一切入らない状況を狙い続けていた。撮り留めたい事象を見つけ、そこでしばらく待ち、人の流れの切れ目を待ってシャッターを切っていた。不思議なもので、新宿や渋谷の駅構内の様な場所でも、人の往来のエアポケットみたいな瞬間は、さほど待たなくてもやってくる事を知ったし、それをあてにして暫く待つ心構えもできるようにもなった。
 
でも、何故そこまでして画角から人の姿を排したがっていたのかを思い返してみると、そもそも、写真を言わば「目日記」の様な位置づけで捉えてもいて、在るべき視覚の記憶として撮り留められる場所に人の姿は必要ないという志向もはたらいていたのだと思う。
 
また、撮り留めておきたい事象に対して、そこに「誰かが判る」人物が入ると、否が応にも何らかのパーソナリティーの様なものが写る人物から表出してしまい、その存在感が撮り残したい事象を食ってしまう様に思ってもいた。それと、自分にとっての写真の在り方を考えると、いわゆる人を撮るという事に虞れの様なものが常々あって、人に相対して関係性を持って写真に収めて行くための関わりにエネルギーや時間も割けられない性分なので、意識的に避けていたきらいもあった。人というものの自分の腑に落ちる撮り留め方が見いだせていなかった。
 
 
 
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そんな中でも、ある時期以降には画角の中に人物がちらほら入る様になった。いや、人物が入って然るべき心構えが出来る様になったと言うべきか。パーソナリティーを含めての人というものに真っ向から向き合ってしまうと、とても扱いきれず、画角に納められない感覚であるのは同じだけれど、傍観者としてそこに居る視点であればその存在感を手なずけられる様に思っている。個々のパーソナリティを含めた「人」でなく、均等な存在としての「人々」として捉える視点でならば。
何だか変な例えだけど、犬を怖がっている子供には犬がけしかかって来て、やがて犬という存在に慣れてきて、恐がらない様になると、犬もけしかかってこなくなる過程と似てなくもない、と思う。主体としての背景に副次として人物が入っているという視点でなら、自分の視線の主軸が人に向いていないなら、その状況を撮り留める事に虞れが生じる事は次第に無くなっていった。
 
 
 
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現状の僕は「人々」(=People)を撮る事は出来ても、「人」(=Person)を撮る事は、いまだに出来ないと思っている。画角の中に単体の人物が入ることはあっても、それはきっと、現状の僕の中では「人々」としての存在、「誰」ではなく「誰か」としてなのだ。