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2F/当番ノート

欲というかさぶた

当番ノート 第32期

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去年の夏に、スリランカへ二週間、そしてモルディブへ一週間滞在するという、文字にするとまるで夢みたいな旅行を夫とした。

そもそも、どうしてスリランカ、モルディブへ行くことにしたかというと、何を隠そう、それは私の父のせい、父版「鶴の一言」のせいである。私の父はいろいろとマニアックな研究をしているのだけど、まず、その研究テーマ不動の地位に、中国、チベットがあるとして、その流れからここ数年は仏教、そして自然とインド、スリランカへと流れてきている。数年前にかの地へ行った父は、バカンス先を決めかねている私に対し、ある日言ったのである。それはパリの、妹の家でのことだった。

座っていたソファに近い床に、(なぜか持っていた)インド洋の地図を拡げると、父は言った。「二週間スリランカをぐるっ!と回って、それで飽きたら、この隣の島へ行ったらいいわね」(山陰地方独特の、真ん中の音が上がるアクセントで読んで頂きたい…)

それで飽きたらって、ていうか、隣の島って簡単に言ってますけど、お父様、それって一般に超有名リゾートといわれる、モルディブのことじゃないですか!!と、いろいろとつっこみどころはあったのだけど、父の話を聞くと、私は『スリランカ、モルディブ案、いいな…!』と感化され、帰宅すると、早速興奮気味に、仕事から帰ってきた夫に話す。

調べてみると、最近はリゾートホテルだけでなく、モルディブも多様な観光の仕方が増えてきているようで、「今年は絶対にバックパック旅行をする!」と宣言した、アウトドア大好きな夫の意志のもと(ううう)、こうして夏の行き先が決定したのだった。

父が言っていた通り、スリランカはいいところだった。ポロンナルワの遺跡で、あのままずっと座って見ていたかった程美しい、岩に掘られているのに大変暖かみのある、横たわった仏像の美しさや、ニラヴェリののんびりとしたビーチは忘れられない。危な過ぎるけどなんとか登ったシギリヤロックや、酷い車酔いにあった山頂の町ヌワラエリアで見たワールズエンド(そしてヌワラエリアの町の湿気!)、そういった大自然の光景の合間に思い出すのは、遠目から見た、もしくはすれ違っただけでも、そっと笑顔を返してくれたスリランカの人々である。

お隣インドには依然行ったことがないので、比べようもないけど、スリランカは人々の優しさが一番の魅力だと思う。そしてスリランカの旅は、私を強くしてくれた。初めてまともにかついだ、バックパックのせいだったかもしれないけれど。

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二週間もあちこち精力的に回ったご褒美として、ついにモルディブへ行く時が来た。夢に見たモルディブが、意外と簡単に行ける日が来るとは思っていなかったので、(お父様の)鶴の一声に改めて感謝。

モルディブでの初日、泊まっていたホステルの男たちは、しばらくボートを走らせた後、大海原の真ん中で止めると、私達はどことも言えぬ、海のど真ん中に入るよう言われた。その時私はライフベストをもらっていなかったので、完全なる自分だけの体(てい)でインド洋に浸かっていた。マスクを装着し、恐る恐る水中へと顔を付けると、遠く、足のつかない、底の見えない真っ暗な海の中が目に入る。私はその時、ほんとうの恐怖というものを感じる洗礼に遭った。

あの時の海の黒さと、恐怖は忘れられない。あんなに濃い青があるなんて。海にはいろいろな表情がある。そのポイントを越えれば、魔法のようにカラフルな珊瑚礁のスポットがあるというコースだったらしいが、ライフベストなく、泳ぎにも自信のない私は、パニックになるのを抑えながらボートの中へと戻った。ボートで待っていた他の男たちは、私の恐怖を理解してくれたみたいだった。

とっくにその怖いポイントを越えて、遠くまで泳いで行ってしまった夫とガイドの男性は、「こっち来いよー!」と言わんばかりに手を振ってくれたが、あのまま自制しないと、私は黒い、深い海の底へなんだか目に見えない力に引っ張られて、落ちて行ってしまいそうだったので、その上を泳いで渡るなんてこと、到底出来なかった。

晴れてライフベストをもらった後は、連日楽しく潜る。私はスリランカのピジョンアイランドという場所で、生まれて初めてシュノーケリングを体験したのだけど、コツが掴めてからというもの、それはそれは楽しくてたまらなくなり、モルディブでもよく潜った。それは、ジンベイザメを探すためだったり、マンタレイに出逢うためだったり。海の中では魚の会議を見た。魚たちは集まって、頭を向けて互いに小さな輪になり、まるで話し合っているかのよう。その様子を一番に見つけた私は、先を泳ぐ夫に「見て!あそこ、 « Ils font la réunion de poissons »(魚が会議してる)」と合図した。

ある時は、大勢の中国人観光客が乗る豪華船の合間を、私と夫とガイドの男性三人でヨットで通り、近くにはちょうど、イルカの群れがいる、という頃だった。薄く、甘い、とろけるような空の色と、モルディブの夕日。カラーパレット。ヨットで何度も往復してもらって、向きを変えてもらい、夕日が沈むまで見る。慣れてくると、波に揺られるのは気持ちがよくなってくる。見上げると、白く細い月が出ていた。水平線へ隠れてしまう太陽が放つ、じりじりとした金の環。それは幾千にも連なって、ところどころ途切れる。

私はこの旅で、いろいろなものが怖くなったり、勇気を持って飛び込めなかったりと、自分の加齢を知った。今までだってはちゃめちゃな少女だったわけではないけど、自分がいっちょまえに年を取っていると知らされたのだった。飾らないモルディブの夕日を見ると、私はあの日言われた、痛烈な言葉たちを、不思議と赦せるような気持ちになっていた。もう二度と会わない、そして会えない人たち。毎日デスクを並べて働いて、顔を合わせていたのに、もう二度と会うことはない。同僚との距離はいつも不思議だ。私はろくに挨拶も出来ず、突然会社を去らなければならなくなったので、それは自分のせいではないのに、自分のせいだと思い込み、悪いことをしたのは私ではないのに、後ろめたい気持ち、罪悪感を背負っていた。
けれど、こんな夕日の前では、それはどうでもいい。こうなったのは私のせいではないのだ。忘れたい。傷を癒したい。許すことは出来ないけど、赦されたい。

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アトリエで一緒だった、彫刻家Eの話を思い出す。彼女は竹を割ったようなという表現がぴったりな、快活な人だったのだけど、パリではなかなか有名な陶芸家らしい。昔ちょっとだけ書道は習ったそうだけど、ある日、とあるお手本を30分程じっと眺めて、すっと立って床に敷いてある紙へと向かうと、お手本通り再現して、見事な書を書き上げたそうだ。

「20年教えてるけど、あんな生徒初めて」と、顎をがくがくさせて話してくれた先生を見て、私は思った。それは、彫刻家ゆえのアプローチではないかと。まだ何もない、ごつごつとした、何に似ているわけでもない岩や木、原石から、この中には何か見えると信じ、削っていく。近付いていく。それは、じっと見つめる作業だろう。彼女は、彫刻家ゆえ、書にも同じように接近したのではないか。

彼女はほんとうにあっけらかんとした人で、一度先生にこう言ったらしい。「私は彫刻しか出来ないから」と。彫刻が出来る人の方が凄いと思いますが… がくがく(私まで顎が揺れそう)。私は思ったのだ。そんな風に、始めから私にはこれしか出来ないと、ある種自分をよく知り、あきらめ、その道へ没頭する、決意した道のりが送れたら、どんなによかっただろうと。私はアーティストへ憧れる反面、真面目にいわゆる会社員として働いた方がいいのではないか、あんな会社に入れたらいいだろうなと焦がれ、お金も稼ぎたい、このままでは不安だと反発、衝突する自分がいて、自分の中の「欲」と戦っている…。

自分が迷い、恐れ、回り道ばかりしてきたせいで、私はあんな風に、あの日、少し暴力的な目に遭ったのだと思っているけれど、その横で夫は「いい加減にしろ、もう忘れなさい」と言ってくれる。(けれど、私の心に、会社に思い入れがあった分、しっかりと傷になって残っているのは確かなのだ。)

けれどこの夕日と、海の上では、自分の中の欲がぽろりと取れ、私は私らしく行こう、お金はなんとかなる。私らしく行けばいいと、すっと思えた。

モルディブの海の上では、何か不思議な力があるのかもしれない。波に揺られながら、私は実にいろいろなことを考えていた。そしてこの旅を終えると、私は書で作りたいもの、再現したいもの、作品のアイディアがどんどんと出てきた。前はこんなことはなかった。辿り着きたい芸術点へ、自分のテクニックが追いついたのだろうか。

旅はいつも刺激をくれ、考える時間をくれ、自分と見つめ合う機会をくれる。昔に比べて空港に行くのが億劫だったり、荷物を準備するのが面倒になってくる。それでも、こうした気付き、心が開かされるような感覚があるから、遠くへ行く。

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岡﨑 真理

岡﨑 真理

文字でも文章でも、書くことが好き。ことばが好き。外国語が好き。でも、日本語も好き。アナログも好きで、デジタルも好き。2011年よりパリ在住。

Photo by Shun Kambe

Reviewed by
高松 徳雄

スリランカそしてモルディブ、本当に、夢のような旅。美しい自然と暖かい人々。
だけど旅というものは、最終的には自分自身を見つめ直す機会を与えてくれるものなのではないか、どこに行こうが、どこで生活しようが、結局自分は自分。人生の目的がそうであるように、旅もまた自分自身の探求が目的なのではないか。

真理さんのこの記事を読むと、そのことを改めて再認識させられます。
美しい海岸、横たわる石仏、そして、少し怖いくらいの、かぎりなく黒に近い青い海。必見です。

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