入居者名・記事名・タグで
検索できます。

2F/当番ノート

賭け

当番ノート 第36期

大学5年生の秋に、サークルの先輩たちと会社を立ち上げました。
メンバーは全員が20代で、先輩方はそれぞれフリーランスの照明家として活躍していました。
それまでもお互いしょっちゅう一緒に仕事をしていて、気心の知れたメンバーでした。

経営とかビジネスとかなにも分かっていませんでしたが、会社を作るにあたって少なくともぼくにはそんなに不安はありませんでした。
それぞれがフリーランスでやっていけてるメンバーだったので、集まればまあつぶれることはないんじゃない?というふわっとしたイメージでした。

予想通りとでも言うのでしょうか、仕事は順調でした。
20代しかいない若い会社だったことも、時代の空気に合っていたのかプラスに働いたようでした。

10年ほど経ってからですが、同世代の照明家さんから立ち上げの頃のぼくたちを
「若い人だけで楽しそうにバリバリ仕事をやっているのを横から見てるとカッコよかったです」と言われたこともありました。
照明業界で新しく会社をたちあげるのは、元々どこかの会社にいた人や有名な照明デザイナーの下にいた人が独立するケースがほとんど。
しかし大学サークルから生まれたぼくらの会社はそういう業界のしがらみから自由だったのです。
それが周りからは颯爽としているように見えていたのかもしれません。

法人化したことで大手の代理店などとも付き合えるようになりました。
規模の大きいイベントや企業の展示会の仕事も増えてきました。
お芝居の世界では、鴻上尚史さんや三谷幸喜さんとお仕事をご一緒させてもらったりもしました。
自分たちではあまり意識していませんでしたが、ぼくたちもあの時代の流れに乗っていたのかもしれません。
思っていたよりもずっと早く、遠いところまでたどり着けた気がしていました。

IMG_3271

3年後、26歳の時に会社を辞めてフリーランスになりました。
舞台照明の業界では、専門学校を出て会社に入るのが一番多いルートです。
そして30歳前後で会社に居続けるかフリーランスになるのかを考えるようになります。
それなりに安定しているけどいろいろ制約が多く拘束時間も長い会社員照明家のままでいくのか、かなり不安定ではあるけれど自分のペースで仕事を続けていくことのできるフリーランスになるのか。

当時、身の回りにはフリーランス舞台照明家の先輩方たくさんがいらっしゃいました。
バリバリと仕事をこなしてかなりの収入も手にしている人もいました。
自分の好きなジャンルに時間やエネルギーを注ぐ働き方をしていいる人もいました。

そんな人たちを見ていて、少しずつフリーランスという選択肢が現実味を帯びてきていました。
やがて当たり前のように、会社を離れることを決めました。
周りからはどちらかというとよかったねと言われることの方が多かった気がします。
ぼくならフリーになった方が稼げると思われていたのだと思います。
26歳でフリーランスになるのは少し珍しいですが、それでもびっくりされるほど早いわけでもありません。
技術や人脈があればいくらでも仕事がとれる、そういう業界、そういう時代だったのです。

当たり前ですが、周りの人からは独立を決意した理由を聞かれることがよくありました。
その答えは相手によって少しずつ違っていました。

「会社に勤めることが合わないと感じたから」
「もっと稼ぎたいから」
「自分の好きなスタンスで仕事をしていきたいから」

相手がいちばんすんなりと受け入れてくれそうな言葉を慎重に選んでいたような気がします。
どの答えも決して嘘ではありません。
だけどどれもホントでもなかったのです。

会社を立ち上げることで、職業として舞台照明家になることを選びました。
経験を積み重ねる中で自分の技術は上がり、結果として立ち上げた会社は順調に育っていました。
小さくて元々仲の良かった同士で立ち上げたので、風通しもよい職場でした。
仕事にやりがいがあり、待遇も悪くはありませんでした。
会社としても個人としても、何も問題はありませんでした。

ではどうして会社を離れるという選択をしたのか。
さらにステップを上がり自分の力で仕事を回していきたいという気持ちは確かに持っていました。
でもそれと同時に、この仕事をこのままずっと続けていいのかという迷いもあったのです。

IMG_1484

当たり前といえば当たり前ですが、演劇や音楽の業界は表に立つ俳優やアーティスはもとより、裏方ひとりひとりも自分が関わるジャンルを深く愛しています。
ぼくも確かに愛情は持っていました。
世の中の平均と比べると10倍くらいは演劇を愛していました。
だけど、そんなぼくのさらに10倍、ジャンルへの愛情を抱いている人がゴロゴロしている。
それがぼくが暮らそうとしていた世界でした。

ただ人前で歌うことができさえすればどんな苦労もいとわない。
ヒマがあれば1日中楽器をいじっていても飽きない。
自分が出演している舞台の本番が終わってから、別のお芝居を観に行く。
そんな風に、生活の全て、人生の全てが自分の愛するもので埋め尽くされていれば幸せを感じる、そんな人が集まる世界でした。

でも、ぼくはそうではなかったのです。
どうしてもその世界で生きていきたいと強く望んで飛び込んだのではなくて。
熱に浮かされた情熱がステージの上で弾ける瞬間を、誰よりも近くで感じていたいだけだったのです。
大隈裏で暮らしていた、あの頃からずっと。

仕事を本格的に初めて、何人もの俳優さんやスタッフさんと知り合う中で、負い目のようなものがぼくの中には生まれていました。
負い目?
誰に?どんな?

IMG_0953

その頃のぼくは、他の人たちと本当にコミュにケーションできているのか、不安でなりませんでした。
例えば「あの人、いい芝居してたよね」と話かけられたとします。
これはお芝居の世界にいるととてもよく出会うシチュエーションです。
でもぼくにはその人の言う「いい芝居」が分からないのです。

もちろんぼくにとっての「いい芝居」はあります。
ただそれはぼくの個人的な好みでの評価なのです。
演劇人として一般的にはどういう基準で演技を評価するのか、そのころのぼくにはさっぱり分からなくて、そのことがたまらなく不安だったのです。

かといって、そういうことを周りの人に告白したり聞いてみることはできませんでした。
そのことで自分の評価が下がってしまうことが怖かったからです。
いま思えば聞けばよかったのかもしれません。
もっとオープンに自分の思っていることを出してみてもよかったのでしょう。
でも、そう振る舞えなかったのも、心のなかに漠然とした負い目を抱えていたからなのだと思います。
周りの人に釣り合うだけの情熱を持っていないのではないかという負い目を。

会社を辞めることを、身近な人以外にはあまり知らせませんでした。
それで仕事がこなくなったのなら、もう辞めてしまおうと思っていました。

試してみようと思ったのです。
自分がその場所で暮らしていてもいいのかどうかを。
賭けてみたのです。
フリーランスになるというやり方で。
どうしようもないくらいに自分の中で膨れあがっていた不安や負い目から逃れるために。

ぶんごー

ぶんごー

舞台照明デザイナー 帆船乗り
劇場か海上にいることが多いですが、日本各地をうろうろしていることもよくあります。
ゆっくりと移動するのが好きです。

Reviewed by
ぬかづき

研究者という職業も因果なもので、ある程度自分の好きなことができるかわりに、当然のようにつきまとう長時間労働 (こんなこと言いたくないけれど、それを「労働」と思ってしまうようではなかなかきびしい) や、任期つき雇用を点々とした将来の確約のない人生に耐えなければならない (もちろんそれが正しいと思っているわけでもないけれど、現状はそうなってしまっている)。

"ただ人前で歌うことができればどんな苦労もいとわない。
ヒマがあれば1日中楽器をいじっていても飽きない。
自分が出演している舞台の本番が終わってから、別のお芝居を観に行く。
そんな風に、生活の全て、人生の全てが自分の愛するもので埋め尽くされていれば幸せを感じる、そんな人が集まる世界でした。"

研究者が暮らしているのも、けっこうそういう世界だ。この◯◯が本当に好きで好きで、ほかの何を犠牲にしても深く知って知り尽くしたい。…そういう愛情を比べてしまうと、私だって常になんらかの負い目を抱いてしまう。

ただひとつ幸いなのは、研究には「正解」が決まっていること。そうした愛情の成果を論文という形にまとめて、世の中に示さなければならない。新たな視点や世界の誰にもできなかったこと、というのが、どの研究者も共通して理解している、研究の評価軸である。愛情だけで研究をやっていられた時代は、研究者に大富豪のパトロンがついていた19世紀までで終わった。それ以降は、職業として研究を続けていくために、愛情だけではなく、打算、戦略、計画性、営業活動なども (ときに愛情以上に重要な要素として) 必要となった。

愛情は必須だけれど、愛情だけではやっていけない。

演劇の世界にも、きっとそういう側面があるんじゃないかと思う。ときとして、口先や世渡りだけが上手で、愛情なんてほんの湿ったひとかけらくらいしか持っていないような人たちが、どんどん成功していくこともあるんじゃないかと思う。そんな矛盾のなかで、ぶんごーさんのとった「賭け」はとても誠実であるように思える。

「賭け」の結果はどうなっただろう。私にとっても他人事ではないような気がしてくる。

トップへ戻る トップへ戻る トップへ戻る