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2F/当番ノート

今思えばパラダイスだった日々

当番ノート 第36期

かつて「小劇場ブーム」と呼ばれた時代がありました。
といっても、演劇に興味のない人にはなんのことやらという感じでしょうが。

ものすごく簡単に(そしていい加減に)日本の演劇史を説明すると、
明治時代までの日本でポピュラーだった演劇様式というと歌舞伎なんですが、
明治の末ぐらいにもっとリアルに行こうぜ!と新派が生まれ、
昭和になってもっと芸術的に行こうぜ!と新劇が起こり、
1960年代くらいからもっと過激に行こうぜ!とアングラ演劇が蠢き始めました。
そして、もっと楽しくいこうぜ!と1980年代に巻き起こったのが小劇場ブームなのです。

学生劇団など既存のプロ劇団ではないところから出てきた、20代、30代の若い俳優や演出家たちがブームの中心でした。
野田秀樹さん、渡辺えり子さん、三谷幸喜さんといった、今でも第一線で活躍している人たちです。

ぼくが早稲田大学に入ったのは1987年。
そろそろ小劇場ブームもピークを過ぎ、それでもまだまだ演劇にはたっぷりと夢のある時代でした。

早稲田大学に進んだ理由、それは「なにかに出会えるかもしれない」という人まかせな期待でした。
演劇をやりたかったわけでありませんし、他に特にチャレンジしたいことがあったわけではありません。
教室の窓から海を眺めるだけだった高校生は、漠然とした期待だけを抱えて大学の門をくぐり、そしてたまたま「大隈裏」の住人になったのです。

「大隈裏」をGoogleマップで検索するとこんな結果がでます。
https://www.google.co.jp/maps/search/%E5%A4%A7%E9%9A%88%E8%A3%8F/@35.7087252,139.7217388,19.87z
大隈講堂の裏手、大学の建物と雑居ビルに囲まれた小さな空間。
大隈講堂裏部室。略して「大隈裏(おおくまうら)」、もしくは「隈裏(くまうら)」

大隈講堂の敷地の隅にある目立たない黒い鉄門をくぐると正面に見えるのはある学生劇団のアトリエ。
奥に進むと小さな広場を囲んで、八つのサークルの部室が入ったコンクリートブロック造りのおんぼろ長屋と演劇研究会のアトリエが建っていました。

鉄門から中を覗いたとしても見えるのは正面の劇団アトリエだけで、その奥にまだ空間があるなんて知らない人には分かりません。
早稲田の学生にさえほとんど存在を知られていませんでした。
勇気を持って門から内側に進み、角を曲がってさらに奥へと足を踏み出した人だけがたどり着ける、そんな場所でした。

ぼくが暮らしていた頃の大隈裏 鉄門を超えて角を曲がった風景 この奥に広場がありテントが建っています

ぼくが暮らしていた頃の大隈裏
鉄門を超えて角を曲がった風景
この奥に広場がありテントが建っています

いまの大隈裏 部室は二階建てになりました ただよう雰囲気はあまり変わっていません

いまの大隈裏
部室は二階建てになりました
ただよう雰囲気はあまり変わっていません

狭くて奥まった隠れ里のような立地ですが、周囲の建物が背の低い雑居ビルばかりだったので日当たりは最高でした。
部室長屋には演劇系、音楽系、人文系、と統一感のないサークルの部室が寄り集まっていました。
音楽サークルの部室ではいつもパーカッションがリズムを刻んでいました。
俳優たちの発声練習がどこからともなく聞こえていました。

キャンパスの中にぽっかりと空いた、世の中から切り離されたような不思議な場所でした。
なのに雑多な人が行き交う場所でもありました。
そんな場所と出会い、ぼくは大学時代の大半をそこで過ごしたのです。

所属していたのは長屋に部室がある「舞台美術研究会」というサークルでした。
大学にはたくさんの演劇サークルや音楽サークルがあります。
そんな学生サークルのライブや公演の照明をやったり、舞台装置、看板を作るサークルでした。

授業の合間にみんなで交互に頼まれた舞台装置を作ったりしました。
広場にベニヤ板や材木を並べて、カナヅチやノコギリを握って。
ペンキや木屑で服を汚したりしながら。
週末にはあちこちのホールやライブハウスで重い機材を軍手をはめてセッティングしていました。
本番になると機材や人の熱気がこもった天井裏で、汗だくになりながらスポットライトを照らしていました。

世の中はバブルの最後の輝きに溢れている頃でした。
大学生でもクラブやパーティーを渡り歩く人たちがたくさんいました。
けれどぼくの学生生活は汗とホコリとペンキの香りに包まれていたのでした。

先日、演出家の鴻上尚史さんのインタビュー記事に、当時の大隈裏について少し触れているのものを見つけました。
大隈裏がどんな場所でどんな人が集まっていたのか、読んでみると分かりやすいかもしれません。
http://www.asahi.com/and_M/articles/SDI2017100346871.html

鴻上さんはぼくよりちょうど10歳上。
演劇研究会出身でまだ学生だった1981年に第三舞台という劇団を立ち上げ、小劇場ブームに乗って一気にブレイクしました。
一気にスター劇団へと駆け上がった第三舞台と鴻上さんは当時の学生演劇人にとってはまぎれもまくヒーローでした。
ぼくが大学に入った頃にはもうプロの劇団として独立していましたが、その数年前までは大隈裏を拠点にしていました。

記事の中でも触れられていますが、演劇研究会では大隈裏の広場にテントを建てて公演をしていました。
ぼくも観客としてテントで観劇したことは何度もあります。
外部スタッフとして作品作りに関わったりもしました。

普通の暮らしの中では縁遠い「演劇」という世界。
大学時代のぼくにとってそれは、日常のすぐ近くにあったのです。

サークル活動でもお芝居やライブをたくさん見ることができました。
全く関わっていなくても、たくさんの演劇の公演やいろんなジャンルの音楽ライブが、身の回りではたくさんありました。
何かを表現したい人、何かにチャレンジしている人。
大隈裏で暮らすようになって、そんな人たちにたくさん出会いました。
そしてぼく自身はそういう人ではない、だんだんとそう感じるようになってきたのです。

そもそもどうして、裏方のサークルに入ったのか、その理由はよく分かりません。
たまたまのタイミングでぼくの心持ちにしっくりと合うものが目の前に現れた。
それだけのことだったような気がします。
裏方として何かをしたい人表現をしたい人を手伝う。
すぐ近くで見守り続ける。
その距離感がぼくにはとても過ごしやすかった。
だから大隈裏という場所に居続けることになってしまったのだと思うのです。

いつも楽器の音か工具を使う音か役者がセリフを叫ぶ声が響いていました。
天気がいい日には長屋の屋根に寝転んでビールを飲んでいる人もいました。
部室のすぐ外には時々テントが建って、当たり前のようにお芝居が演じられていました。

夢を持った人が行き交っていました。
夢なんて持っていない人もたゆたっていました。
そのどちらにとってもなんとなく居心地のいい、それが大隈裏だった気がします。
いろんな価値観を持った人が、それぞれの想いをぶつけ合ったり、躱しあったり、距離をとったり、絶妙なブレンドであの場所にいたのです。
そんな場所だからそこにいられたのだと思います。いたいと思ったのです。

望んでたどり着いたわけではありません。
そんな場所があるなんて想像すらしていなかい場所。
天からこぼれ落ちるように、突然目の前に現れたパラダイス、それが「大隈裏」だったのです。

暮らしていたのはたかだか3,4年のことでした。
けれど間違いなく、ぼくの人生は変わったのです。
なのにその頃のぼくはそこが人生を変える場所だったと知ることもなく毎日ただふわふわと漂っていたのでした。

ある本に掲載されたうちの部室の写真 手前に写っているのは20歳のころのぼくです

ある本に掲載されたうちの部室の写真
手前に写っているのは20歳のころのぼくです

*文中の写真の一部は「大隈裏1967→1989」(演劇ぶっく社)から転載しました

ぶんごー

ぶんごー

舞台照明デザイナー 帆船乗り
劇場か海上にいることが多いですが、日本各地をうろうろしていることもよくあります。
ゆっくりと移動するのが好きです。

Reviewed by
ぬかづき

演劇やコンサートの裏方というのは、余白をつくりだす仕事なのかもしれないと思った。あくまで、主役は役者やミュージシャン。そうした人たちがその存在感や表現力を存分に発揮できるように、空間を整え、姿や声がよく通るようにスペースを空けて、本番になると自分たちは後ろのほうへ引っ込んでいく。

文化系のサークルが統一感なく集まった、大隈裏という大学のなかの余白 (パラダイス)。そして、舞台美術という余白。ぶんごーさんは、なにも意図せず知らずのうちに、「余白のなかの余白」を選びとっていたのだ。

文章を読みながら、私も、体育会の部室で暮らしていた大学の日々のことを思い出した。強制や束縛から自由になって、最低限の秩序を乱さなければ、いつまでも無条件に、自分はそこにいることができる場所。そういう場所にはそれぞれのカラーがあるけれど、自分の持っている色と調和すれば、本当に居心地の良いところになる。

そして最後の写真! これに写っている「ブタビは一応メイワク型に分類される」から始まる紹介文も非常に興味深い。「小判鮫的活動」って笑……こちらのほうも、つづきが気になってしまうではないか。

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