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2F/当番ノート

自分のことさえ分かっていなかった

当番ノート 第36期

1995年の1月にフリーランスになりました。
それからも仕事は順調でした。

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前回のコラムで書いたような長い旅回りの仕事の割合はだんだんと増えてきました。
家庭の事情などで長く家に帰れない仕事を嫌う同業者も多かったからです。
一方ぼくは、そうした地方を転々とするような暮らしが性にあっていたのでした。
また長い期間拘束されるので細々と仕事を取る必要がなくて楽だったというのもあります。

また年齢の近い演出家や劇団から照明デザインを頼まれることも増えていました。
学生時代から演劇を続けていてプロを目指している友人やそこから紹介されて新しいつながりが生まれたりもしました。

フリーになって半年ほどが経って、知人に紹介されて都内のイベントスペースでの照明管理も始めました。
コンクリート打ちっ放しでそれなりに広さもある独特の雰囲気のあるスペースでした。
ウェディングパーティーやアパレル関係の展示会が多く行われていましたが、お芝居やコンテンポラリーダンスの公演などでも時々使われていました。
パーティーや展示会の時はこちらで照明機材の設営や調整を行い、演劇などで主催者側の照明デザイナーがいる時には、そのサポートやスペース側の機材の管理を行うお仕事でした。

お芝居の照明デザインなどはぼく個人を指名して発注される仕事なので自分自身で担当しないといけないのですが、イベントスペースの仕事は極端な言い方をすると誰でもいい仕事でした。
技術のレベルが一定以上でその場所の照明のシステムを理解しているのなら誰がやってもそれほど結果の変わる仕事ではないのです。
というわけで、デザインや旅公演には自分が関わり、イベントスペースには他のフリーランスの仲間を手配するようにだんだんとなっていきました。

また同じ時期に照明機材をまとめて手放したいという話もあり、そこそこの量の中古機材を買い取りました。
置き場が必要なのでフリーランス仲間何人かと一緒に倉庫も借りました。
手に入れた機材は自分たちで使うだけだけではなく、他の照明家さんにレンタルしたりもしていました。

全ては会社を辞めてから1年以内に身の回りで起こったことでした。
自分が働くだけではなく、他の人をブッキングしたり機材のレンタルをしたりで、売り上げは個人としてはかなりなレベルになっていました。

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仕事が忙しくなるにつれて、年の近いフリーランス仲間がなんとなく周りに集まるようになってきました。
2016年の年明けには仲のいいフリーランスを集めての新年会を企画したりもしました。
フリーランスの最初の一年は、思っていたよりもずっと忙しく、慌ただしく、そして賑やかに、過ぎて行ったのでした。

舞台照明の会社はいくつかの例外を除くと、せいぜい社員が10人前後、もしくは数名しかいない小さなものがほとんどです。
基本的には一人かせいぜい二人ほどの仕事を持っているデザイナーが、それを回していくために社員を集めるという成り立ちがほとんどだからです。
フリーランスになって一年ほどの間に、ぼくの周りにもいつしか人が集まりました。
そしてまだ半分冗談ではありますが、このメンバーで会社作っちゃおうか、みたいな話題が時々口に上ることもありました。

ハタからみると順風満帆に見えていたと思います。
でもぼくの内側で小さなザラザラしたものが少しずつ大きくなっていたのでした。

仕事はたくさんありました。
身近に仲間もいました。
なのになぜ違和感を感じていたのか。
理由はよく分かりませんが、強いて言うなら「そういうことが好きではなかった」からかもしれません。

自分自身も少し前に会社の立ち上げに参加しました。
身の回りにも、新しく会社を作ったという話はたくさんありました。
そしてその時の状況は後ほんの少しで会社の立ち上げに踏み切れる状況でした。
足りないものもいくつかありましたが、決断すればおそらく勢いで乗り切れる程度の問題でしかありませんでした。

ぼくが好きではない「そういうこと」
そのころはどういうことなのか分かりませんでした。

でもそれから20年ほど自分とつきあってきて、今は少しわかったような気がします。
「ひとつのことに一生を捧げる」ことと「自分の人生に他人を巻き込む」こと。
勇気や覚悟が足りなかったわけではなく、決断ができなかったわけでもなく、多分ただ好きではないだけ。

一方で、ぼくはどんどんと疲弊していました。
仕事のオファーがくることが嬉しくて、引き受けられるギリギリまで仕事を入れていました。
またいつ仕事がなくなるのか不安なので、なるべくたくさん仕事を入れたいとも思っていました、

一ヶ月程度休みがないことはザラでした。
そして休みの日は死んだように部屋で1日眠り続ける。
そんな日々を過ごしていました。

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実のところ、体力的にはそこまで余裕がないわけではなかったと思います。
疲れていたのは心でした。
同じようにアクセルを踏み込んで車を運転しているつもりが、いつの間にか下り坂に差し掛かって思っているよりもずっと速いスピードで走ってしまっていた。
その頃のぼくはそんな状況だったのです。

仕事中にイライラして周囲の人にキツくあたることが増えてきました。
職人気質な人が多い業界なのでそういうのが当たり前だったというのもあります。
仕事のクオリティーを上げるためにしていること、自分ではそう思い込んでいました。
でも、そういうことではなかったのです。
ただ自分でも理解できなくて持て余している感情を周りに撒き散らしているだけでした。

20代後半のぼくには、まだ自分のことさえ少しも分かっていなかったのです。
好きなことで生きているつもりだったのが、少しずつ好きではない暮らし方へとずれ始めていたのです。
そして日々の忙しさにかまけて、自分ではそのことに気づいてもいなかったのです。

フリーランスになって1年半ほどが経ったころ、ぼくは限界を感じていました。
それでも仕事は次々に入ってきました。
たくさんのやらなくてはいけないことがありました。
ぼくはただやらなくてはいけないことを、順番に機械的に処理するように働いていました。
楽しくはありませんでしたが、自分の感情について考えると前に進むことができなかったからです。

どうして仕事に対して前向きでなくなってしまったのか、その頃の自分には分かりませんでした。
だからもちろん、どうすればいいのかも分かりませんでした。
自分が好きで始めたはずの舞台の仕事をこのままだとキライになってしまうかもしれない。
そんな切ない未来への予感だけははっきりとありました。
だけど、自分ではどうしようもないままで進み続けることしかできなかったのでした。

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ぶんごー

ぶんごー

舞台照明デザイナー 帆船乗り
劇場か海上にいることが多いですが、日本各地をうろうろしていることもよくあります。
ゆっくりと移動するのが好きです。

Reviewed by
ぬかづき

楽しい仕事と一緒に走りつづけて、物事はうまくまわり、仕事は新たな仕事を呼んで、毎日が本当に「充実」する。でも、身体的・物質的な「充実」とは裏腹に、人間としての心は、正体の見えない違和感にだんだんおしつぶされていく。しかし、そうかといって、スピードを落とすのも怖い。

ノートに述べられているこのあたりのジレンマ、実は、すこし前あたりまでの数年間に私が悩んでいたのと同じことなのだった。照明と研究で世界はちょっと違うだろうし、また、ぶんごーさんと私の年代も違うけれど、私自身の苦しみも思い出されてくる物語に、妙な共感と恐怖をおぼえた。

このジレンマを自分のなかで受容したり解消したりすることができれば、それは本当の強さに変わる。私はまだこのジレンマと完全に融和できてはいない。ぶんごーさんはどうしただろうか。

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