奏でる身体に紡ぐ音

第31期(2017年2月-3月)

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ダンサーは、自らの身体で奏でる。
 
 
 
サキソフォンの即興演奏をするようになったほぼ同時期から、知人の声掛け等を介してダンス、演劇など、グループや作品単位で舞台作品への演奏参加をしていた。様々な舞台人達との関わりを続ける中、割と早い段階で、自分の自主的な活動の軸として組みする相手として、コンテンポラリーダンスシーンに居るダンサー達を強く求めているということが解かって来た。
 
ダンサー達の在り方を、自分が身を置く器楽演奏の世界になぞらえると、歌や台詞に該当するナラティブな要素が無く、身体という楽器を繰って言葉を介さず、ムーブメントという旋律を奏でていると捉えると、共有出来る世界観を持つ人々に思えたのだった。やがて、ダンサーに対して僕が求める在り方も見えて来るようになり、ムーブメントに於いて、書道での「とめ」「はね」「はらい」にあたるものが丁寧に、しなやかに見える様なダンサーとの共演、恊働を恒常的に求めていた。ダンサー達にとっても機動力のある演奏家は要り用だった様で、共演の機会は途切れず続いた。然るべき巡り合わせを通して、深く長く一緒に取り組める人達に出会える様にもなった。
 
舞台に於ける作品づくりの方法は、それこそ演出家や作品の数だけ存在すると言ってもいいと思う。ほぼ毎回が新規のトライアルになるし、それを楽しんでもいる。作品についてのやり取りは演出家と行うが、自分が音楽家として向き合う対象は演出家という「人」ではなく、演出家が取り組んでいる「作品」で、演出家は作品世界を考える作家としての、そしてそれらを伝える語り部の様な存在と捉えると、自分の中でも腑に落ちる。やり取りの中で摂取した作品世界に視線を向けて焦点を合わせる。自分を泳がせつつ、音のあるべき姿について想いを巡らせる。作品の世界観への意味付けや、推力、補強としてなど、音や音楽で形づくれる様々な関係を考える
 
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自分なりの舞台作品への音楽家としての問題意識というか、自主課題の様なものを思い描いていた時期に、セッションを日常的に行いつつ作品制作へと緩やかに移行していくスタンスのグループに関わりはじめた。ほぼ毎週末、リハーサル会場でお互いに即興で対峙し、セッションを通して音とダンスムーブメントの関係性を探り、フレーズや語法の様なものを作り合い、イメージや言葉(詩や散文の様な物が多かったと思う。)を共有しながら作品を編んで行った。
 
そのような関わりからは、音楽や演奏のみの場で生み出せない、自分のみでは逆立ちしても出て来ないような音が生まれたりしてもいて、リハーサルやセッションの録音をプレイバックして、自らの演奏に驚いたりする事が少なからず起こる。ちょっとした奇跡の様な、得難い様々が詰まった場だとも思う。
 
 
 

Legs [from “un face”] (2016)
choreography & direction by Kazuyo Hara
dance performance by Yoko Takase & Mariya Takechiyo
film & music by Yow Funahashi
 
 
 
演奏にしろ楽曲づくりにしろ、現在の僕の音に関するクリエイトのノウハウは、駆け出しの時期からの並走の様なダンス作品への関わりを通して醸成されたのだと振り返っている。後に、ナラティブな舞台作品やファッション展示、映像作品のための音のクリエイションを行う様になった時も、ダンスとの関わりを通しての経験が大きな礎になっているのを感じる。
 
 
 
奏でる身体のために音を紡ぎ続けたい。