『傑作は未だか』 第一話「化学工場と美術への目覚め」

第34期(2017年8月-9月)

一点の傑作を作るには膨大な無為な時間とどうしょうにもない駄作が不可欠だ。少なくとも私には。

1990年後半、私は富山県の片隅にある化学工場に勤めていた。三日働いて一日休みで勤務時間は昼番・夕番・夜番と三交代で作業させ24時間、工場は操業していた。狐色した作業着を着て指示された作業をこなす仕事で、タッチパネルで配管を流れる化学的な液体を調整したり出来上がった製品をフォークリフトで運搬したりしていた。当時の私はこういう仕事にまったくアキタリナク思い、辞めたくて辞めたくて仕方がなかった。とはいえ他にしたい事も特に無く、お金が貯まったら自分の人生に役に立つ何かをしようとぐらいに思っていた。

私はいつの頃か、絵画やアートが好きというか、それらの方面に憧れ・興味を示すようになっていた。最初に記憶があるのは工業高校の図書館にあった分厚い美術の図鑑か何かで与謝蕪村の冬の京都を描いた水墨画をしげしげと眺めモノクロコピーして携帯するようになった、教育テレビの日曜美術館を視聴するようになった、本屋で芸術新潮を立ち読みするようになった。生理的にとしか説明しようが無いのだけど、いつの頃かそういうふうに絵画やアートに執着するようになっていた。でも高校生の時は自分の人生とアートを具体的に結びつける選択はしなかった。美術大学に行くとかそういう選択肢は皆無だった。周りに画家とかアーティストとか美大出の人とかそういう人がいない、いや、もっと言うとアートに限らず自分のしたい事を本気になってやっている人がいないかった、見当たらなかった。水商売をしていた母親も(我が家には父がいない女性とお金の問題でいなくなった)学校にいる大人も含めてやりたいことをやっている大人が身近にいなかった、そういうことも影響しているだろうが、将来を自分で選択するということ自体が高校生の自分には情けない事にわからなかった。バカ自分と責めても詮無き事、今からでも頑張ろう。
高校を卒業して学校の掲示板にあった地元の化学工場に何となしに就職したが、ここもまたフツーの人たちと言うか私にとってアキタラナイ人達の場所だった。そういう感じの工場勤務を1年・2年と過ごし、お金も100万円くらい貯まったと思う。僕はもう二十歳になろうとしていた。二十歳というのは最早いっぱしの大人である。少し焦って人生を熟考し始めた私は預金の残高100万円と残りの時間(これからの人生)を美術に使う事にした。少ない判断材料のもと生理的に美術にかける事にした。他にしたい事が見当たらなかったし思い当たらなかった。最も近くにある美術の学校を探したら富山ガラス造形研究所というガラスで彫刻的なものや工芸的なものを学ぶ所がありここに三年連続受験して、落ちた。三回目は面接まで通ったのだが、意気込み過ぎて自作の四文字熟語を墨痕荒々しく大書したものを持参して面接官に見てもらった、面接官は冷静に判断したのだろう、落ちた。健気にも化学工場に通いながら美術予備校に通いながらなのに落ちた。
美術受験という事業に取り組んだ私は、予備校に通うための資金や合格後の学校生活のため化学工場の勤めの他にパチンコ屋の閉店後の掃除というバイトもしていたのに、健気であり不憫である。
三回も受験に落ちると、根性なしでかっこつけマンの私は最早、挑戦する気力が失せてしまった。予備校にもパチンコ屋の清掃にも行かなくなり三交代の化学工場に通うだけの生活に戻り、急にやる事がなくなってみると実に平和・穏やかな日々がまたおとずれた。貯金の残高は200万円ぐらいは貯まっていたと思う。心中芽生えてしまったアートへの情熱はくすぶってはいたが何処にも燃え移る事はなく、なんともいえない心境であった。でも、ただ憑き物が落ちていくような感覚があった。

穏やかで張り合いのなくなった日々に波風を立たしてくれるアーティスの一群と近くの黒部市で出会った。ある日の夏、突然。

東京からきた美大生の展覧会が黒部市のコラーレという広大な文化複合施設で開催され、鑑賞者として私は彼らと出会った。
偶然手にしたチラシで知り、よくわからないまま何となく美術の催し物かな、ぐらいの気持ちでで見に行ったのだが、この展覧会から受けた衝撃というのはハンパない。いまだにこの時のショックを引きずっている。「ダムザン」(天下に名高い黒部「ダム」と北アルプスの「山」の音読み)というタイトルをもつこの展覧会を鑑賞してもない第三者に伝えることは難しいのだけど、、、難しいので諦めるのだけど、若手作家というよりも学生の作品展であったのだけれども、傑作ばかりで随分感動した。制作した作者が直ぐそこにいてくれるのが何より嬉しく刺激的であった。会場に展開されていた作品はインスタレーションが多く、先端的な感覚で完成度が高い傑作ばかりであり、でもどこか感情的であった。技術はそこそこあっても理論も経歴もない観客もいない状況だったからかもしれない。
会期が一ヶ月ぐらいだったこともあり、工場に行く以外、足繁く学生達の迷惑も顧みず話しかけ少しでもアートのエキスを彼らから搾りとろうとしていた。振り返ると私は相当に迷惑だったに違いなく、事実「あの時のお前は飢えた野良犬」と後に言われた。まかりなりにも作品を展示しているのだから年上の立派な作家と思い込んでいたが、聞けば殆ど同世代でなかには年下までいるではないか、でも化学工場にいる人達とは違う、自分で選択して生きている感じが彼ら学生から激しく伝わってきた。江戸時代、長崎の出島でオランダ人と交流する日本人の様に(無論、私はそのような日本人とは出会った事もないが)おそるおそる彼らに接触した。私は富山に住み、工場で働いているがあなた達と同じく美術を志しているが、どうすればいいかわからないでいる。という事情を何回も通い少しずつ伝えた。今,考えればそんなもん彼らだって同じ心境であったろう。
なんの見返りもなさそうな、展覧会に同年代が頑張っている、なんだか羨ましかった。夏の終わりのある日、この展覧会の撤収の日がやってきた。もちろんその日も会場におもむき、その作業を手伝った。カッコ良かった作品もだんだん無くなり、だんだんつまらなくて寂しくなっていくのである。
大きい4tトラックが仲良くしてくれた美大生の運転でやって来て梱包された作品を積んでいった。よっぽどみんなお金がなかったのだろう交通費を節約するためかトラックの運転席にはぎゅうぎゅうに人が乗っており、助手席のドアの下の窓、普通だったら人のフクラハギが見えるだろうポイントにチーちゃんと呼ばれていた女性の作家の顔が見えた、感銘を受けた。

あの傑作群と作家がぎゅうぎゅうに詰まったトラックに私も乗り東京に行きたかった。彼らがいなくなった、日常が僕には、これまで以上にくだらないものに思えた。

ここに至ってようやく私は、傑作をつくることが人生の目的になった。