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2F/当番ノート

『傑作は未だか』 第二話「預金暮らしと美術の実習 上田・横浜」

当番ノート 第34期

1点の傑作を作るには他者との摩擦が必要だ、たとえ交流の仕方すらわからなくてもまた、その他者が交流を望んでなくとも。すなくとも私には。

新しい千年紀が幕を明け2001年、私は横浜にいた。1990年代後半、私は富山県の片隅で工場勤務のかたわら美術を志していたが東京からやってきた美術大学の学生たちと出会ったショックにより5年も勤務した工場を辞めBゼミという横浜にある現代美術の私塾に通い始めていた。
この私塾は、私がアートに期待していた全てをほとんど即座に叶えてくれた所であった。黒部で出会った美大生のように4年間大学に通う程の根気とお金が私にはなかったし,東京芸術大学なら芸大風の武蔵野美術大学ならムサ美風のそういう校風というか、においに染まる可能性に嫌悪感を感じとったのもある。Bゼミには1年から4年と通えるコースがいろいろ選択でき、私は最短の1年コースの理論専修というものをいくらだったか失念したが何十万円だかを支払って受講することにした(試験というものがなく面談で入学というか入所させてくれた)。

横浜のBゼミ通いと同時に長野県上田市にも通い始めていた。上田市といえば戦国時代末期の真田幸村が有名だが無論その人には関係なく、上田市にある旧西塩田小学校という木造廃校舎で黒部で出会った美大生の中で唯一、電話番号を教えてくれた山根君という芸大生と共に展覧会を開くべく、いろいろ準備していた。この時期、勉強のため横浜、展覧会のため上田と、この二都市間を激しく往復していた。狭い富山県をあくせく、うろうろしていた頃とは違い、忙しいのに変わりはないが何だか世の中と直結している感じがした。
2001年の春、Bゼミの入所式があった。その式中、私と同じく入所した学生がなぜか突然、出席していた講師のアーティストをオモチャのピストルで狙撃した。ケガ人も乱闘も何も起こらず、只、場が一瞬凍りついただけであった。H氏という現代アートの巨匠の演習(Bゼミでは授業のことを演習と呼んでいた)の初日、講師たる巨匠H氏が大遅刻してやっと現れたらとても酒臭く、講師の席に座るやいなや「もう何十年も講師をしている、今日から君たちが講師だ来週から輪番制で学生達が考えてきたお題で進める、僕もそのお題を学生の一人として受ける」と発言し、本当に次の演習からそのように進められ、一番最後の演習はなぜか横須賀の巨匠行きつけのバーで行われた。
前述、殆ど全てを即座に叶えてくれたと、書いた。只の破天荒じゃなく真摯な哲学を核に持った止むに止まれぬ破天荒といえばいいのかアートというものにぼんやり託していたものを殆ど全てを即座に眼前に出現せしめてくれたBゼミであった。
富山で5年間貯め続けた貯金は250万円にも達していた。母にはごく簡単に美術の勉強しに横浜に行く工場も辞め、この家を出て行くと告げ、狭苦しい市営住宅を出て行った。今、よくよく思い出すと私はあの貧乏そうな狭苦しい市営住宅に母を一人にして出て行ってしまったのか、ごめんなさい、今度焼き肉でも私のお金でおごろう。

上田市での展覧会の準備はとても刺激的であった、生きている充実感(陳腐な言い回しだが)というか、そういうのがあった。私としては本当は黒部で開催されていたダムザンという学生の展覧会によしんば出展させてもらえれば御の字であったにの、山根君は場所も出展作家も新たに探し展覧会をゼロから立ち上げたいと言ってくれた。横浜のBゼミに通うのと同時に並行して北関東・長野・山梨・新潟にある廃駅舎・廃工場・廃校舎を様々な方法で探した、無論展覧会を開く会場としてである。ネットで検索するのはもちろん、各自治体に電話で確認したりした。そうこうしてる間に長野県上田市塩田平にある西塩田小学校の木造廃校舎に辿り着く。

富山を出郷したのが2001年の4月、横浜Bゼミ入所が5月、西塩田小学校に辿り着くのが7月。もの凄い急展開、お金があって勤めに出ないって人生をハイスピードで進めることができるのね(5年間の貯金があったおかげだけど)。
上田駅より北陸新幹線やしなの鉄道とは別に、別所線というローカル線が西に向かっている。真田氏も入ったという別所温泉に向かう鉄道で、上田駅を出発、千曲川を越えのどかな田園風景に伸びる、優しい感じがする路線である。途中、舞田駅という無人駅で下車すると塩田平を取り囲む山々の中、一際けわしい山肌を見せる独狐山が目立つ、その山を目指しながら南に歩を進めると木造の古びた校舎が佇む。西塩田小学校である(以上『街道をゆく』風に紹介してみました)。
一目見て、私は、ここで展覧会が開かれたら、さぞ美しく面白かろうと興奮した。
半年ぐらいの時間をかけ上田市の教育委員会に展覧会開催のため、校舎の使用許可の手続き、これはと思う作家を東京や長野に訪ね出展依頼などの準備作業を重ね、2002年の4月頃には、展覧会名「海の向こうより山の向こう」主催/海の向こうより山の向こう実行委員会(委員長は関係者にお願いして私がずうずうしくもさせてもらった)共催/上田市
 会期/2001年8月4日ー8月24日
出展作家二十余名と、そこまで決まるまでに至っていた。よく、私が実行委員長なのにここまで進んだものである、特に行政の公的な支援は今、考えても有り難い。

横浜のBゼミは2002年の3月には修了し、預金の残高もだんだん心細くなってきていた。その頃、練馬にある小劇団の稽古場に、寝泊まりさせてもらっていた(劇団にはちゃんと家賃も払っていたし、舞台美術のデザインや製作もさせてもらっていた)。

上田で開催したその、『海の向こうより山の向こう』という展覧会はなんとか無事、開催され5600名以上の来場者を迎え、一応成功裏に終了した、私自身は実行委員長の仕事が忙しく一番肝心の自分の作品制作はできず、移動時間でも作れるということで画家を主人公にした短編小説を書いて、会期中その廃校の会場で朗読していた。工場を辞めわずか1年半で人生は変化した。付き合う人も広範囲に変化した。成功者ばかりでなかったがみんな自分で選択して生きていた。

ここに至って、ようやく私は傑作を作るには人と交わらないといけないことを知る。

ioriyoshimoto

ioriyoshimoto

吉本伊織1978年富山県生まれ。大道具や美術作品の施工など様々に転職、上田市や天草市など様々に転居を繰り返す。今、私にとって一番大切なことは絵を描く事です。好きな食べ物は焼き魚。(数少ない)主な収蔵先:神奈川県立近代美術館

Reviewed by
寺島 大介

飛躍の年、それは突然やってくる。
預金の量と反比例し、傑作に近づく経験、他人との摩擦が増えていく。
撃たれたのは号砲。
始まったのは、孤独な制作ではなく大勢を巻き込む場の創出だった。

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