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2F/当番ノート

『傑作は未だか』第四話「昼は制作 夜はレンタルビデオ屋さん」

当番ノート 第34期

一点の傑作を作るには自分の特性を知ることだ、熟知する事だ、痛みを伴うほど。特に欠点を、少なくとも私には。

2001年春に富山を出郷して丸3年が経ち、ようやく私は全てを手に入れた。作品を作るためのアトリエ(旧西塩田小学校という廃校)、軽トラ、制作資金(月収16万円の深夜のレンタルビデオ屋さんスタッフ)、住居(離れで居候)。あとは作品を作るだけである。作るべき作品は既に模型まで用意してあった。久し振りに母がいる富山の市営住宅に一時帰宅して自室にこもって制作したのである。久し振りに帰ったというのに、私といえば模型を作るだけをして母にはできるだけ関わらないようにして模型の制作に集中した。完成したら上田市塩田に戻った。
私は今、絵を描いているが、当時は舞台美術とインスタレーションの両方を制作していた。私が絵を描き画家と自称するようになるにはあともう数年の時間を要する。
前述ー全てを手に入れたとしたが、作りたいもの作るために必要なものの全てをそろえる、只単純に作品制作にここまでいろいろ必要なのだと、十数年を振り返りながら改めて作品を作るって本当に大変なんだなと思う(今もそれはまったく変わりなく、どんどん苦戦を強いられている)。
苦労話はここまでにして、私は意気揚々と西塩田小学校で作品を作り始めた2004年の夏の事だ。
今まで、4話まで自伝を書き連ねてずっと惨めな苦労話ばかりだったので、好調な自分を書き出すというにはどうもアキタラナさを感じるが、2004年の夏、私には心配事が何もなかったように思われる。あの時の事を思い出すとこう、自然に笑顔にさえなるのである。
レンタルビデオ屋さんの深夜スタッフというのは都会でも多分、暇だろう。上田市の中心部から少し離れた千曲川の西側に広がる塩田平の真ん中にあるレンタルビデオ屋さんの深夜というのは、たまにしかお客さんが来ず、体力的にとても楽であったし、何より当時の私は20代半ばでとても体力があった。朝、居候先に立ち寄り仮眠して昼過ぎから夕方まで廃校の図工室や体育館で制作し、出勤前に少し寝るという単調だけど私にとってはとても創造的な日々を送る。さらにできるだけ行動範囲を自ら狭めるように心がけた。私は余程の用事がない限り千曲川を越えて塩田平から出てはいけない塩田平にアトリエと住所と職場があるのだと自分に言い聞かせた。
私は人脈を拡げる才能がある。そもそも人が好きなのである。人脈が広がるというのは用事が増える事でもある。本当にやりたい事から離れてしまうのである、私の場合。2002年実行委員長をつとめた「海の向こうより山の向こう」、この時は一人でも多くの来場者を獲得するため(前に自伝の中で自分の出世のため頑張ったという意味の事を書いたけどもう一つある、出展してくれた作家さんたちに対してより多くの鑑賞者を用意することが責任だと思っていた)人が集まる所に出来る限り顔を出すようにしてチラシを手渡して宣伝し、地元のメディアにも足しげく通った。その甲斐もあってか長野県のメディアに限っての事だけど大きく取り上げられ5603名の来場者につながったのだけど、2004年のこの時はそういう事は控えようとしたが、そうはいかなかった。結局、地元のあじさい祭りという企画に関わったり、東京から来た映画の撮影クルーに大道具補助としてバイトしたり、結局絶好の環境だったにも関わらず集中して制作しきれなかったと思う。

静かに坦々と作品を作ることができない、自分を憎む。

4ヶ月の時間をかけて、インスタレーションの作品は模型どおり完成した。どういう作品だったか一応説明すると、西塩田小学校の体育館の全面を使用した大きな作品で、床の全面には白いチョークで人が横たわる自分のアウトラインを約300体描いた(2年前「海の向こうより山の向こう」で起こした交通事故の時に長野県警に描いてもらった自分のアウトラインから想を得る)、白いチョークで描いた定着しない線だから鑑賞者が通り過ぎる事でだんだん消されていき白いヨゴレに変わる。白い人の痕跡を踏みしめ体育館の奥には幅3m・奥行き9mの縦長の黒い光沢を放つ黒い油面のような舞台があり、体育館の高すぎる天井高をおさえるために垂れ幕を張り、舞台の背景幕として墨色の滝がもしあったらと描いた幅15m高さ6mの幕を吊るした。黒い舞台の右側(舞台用語だと上手)には古着をコンクリートで固めた30着ぐらい山積みしたカマクラぐらいの大きさのモノがあり、舞台左側(下手側)はベットとカーテンを配して寝室を作った。服を脱ぎ捨て寝るという日常的な動作を想起する装置を作った。この作品のタイトルは確か「マイウェイ」というものだった。
この作品は、あまり評判は良くなかった、そもそもあまり宣伝もしなかったので、多分30人くらいしか見ていないだろう。この作品は、作品らしいものを作った初めである。評判は確かに良くなかったけど、最初にしてはなかなか良いではないかと、思う。でももっと時間をかけ集中して自分の作品に取り組む事もできたはずである。
9月の初めには作品は体育館から無くなった、撤収したのだ。また、消化不良の忸怩たる心境になった。

数年前に富山を出郷した私は、他人が10年かかった事をオレは1年でやってやるよとイキガッていた、しかしどうも逆で自分は簡単なことも出来ない人ではないかと思い疑うようになる。
市民に芸術鑑賞の機会を与える展覧会の準備のためにお借りしていた西塩田小学校の鍵も、市の担当職員に返却し、もう入れなくなった体育館を口惜しくながめていた。
ここに至ってようやく、人が10年かけて成し遂げることを私は一生かけてもできないのかもしれない、という事に気がつくのある。

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床にチョーク・コンクリートに浸けた古着・カーテン・ベット・黒い舞台・垂れ幕・背景幕 旧西塩田小学校体育館

ioriyoshimoto

ioriyoshimoto

吉本伊織1978年富山県生まれ。大道具や美術作品の施工など様々に転職、上田市や天草市など様々に転居を繰り返す。今、私にとって一番大切なことは絵を描く事です。好きな食べ物は焼き魚。(数少ない)主な収蔵先:神奈川県立近代美術館

Reviewed by
寺島 大介

孤独な制作環境を自ら作り出したのにも関わらず、常に人とのドラマを求めてしまう。傑作に至る道のりの中
行動にはまだまだ矛盾が生じている。言葉で語られる作品は、十分魅力的で傑作の雰囲気を出しているけれど
過去を見る眼差しは常に厳しく傑作であることを許さない。厳しい眼差しの下で傑作は傑作と認められず物語だけが
痕跡としての作者の動きを記録している。第三者の語りが不在な事で傑作のイメージは膨らみ時間とともに膨張していく。

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