『傑作は未だか』第三話 「工場派遣とホームレスへの道」

第34期(2017年8月-9月)

一点の傑作を作るには、失敗しても何度でも立ち向かう精神が絶対不可欠だ、少なくとも私には。

2002年8月、長野県上田市旧西塩田小学校で開催された「海の向こうより山の向こう」という展覧会は、20代前半の美術大学を卒業したり・してなかったりの人たちで構成された実行委員会(私が実行委員長をやらしてもらった)が主催であったにも関わらず、21日間の会期で5603名の来場者があり成功裏のうちに終わった。どんな内容だったか概略だけふれると、東京の美大を卒業したての作家や在学中の作家など若い人たちと、上田市近辺で地道に長年創作活動を続けている上田彫塑研究会、木製の置物「とっこ」制作の武石村の宮下種次氏(1907年生まれ、会期の直前に永眠)などなど二十余組。多様性を意識した展示で、会期の半ばには窪島誠一郎氏の「旗を振れ旗に吹く風になれ」と題した講演会もあった。

只、私自身は満身創痍だった。開幕前日の8月3日に原付の居眠り運転で自損事故、会期半ば会場の目の前でまた原付で事故を起こした、二回目の事故は大きく右の肩と腕をつなぐ腱を切り、会期途中でいなくなってしまった私の代わりに長野県警が残した気を失い横たわる私のアウトラインを白チョークで起こしたものが、私を訪ねて来場された方に、なぜ不在なのかを無言にうちに説明してくれていた。この展覧会に関しては、特に実行委員長になってからは、成功しなければならない絶対に、という強迫観念にとらわれていた。浅ましい私はこの展覧会がもし成功し世に注目されたら私も世に出れるかもしれない、NHKの教養番組に出演できるかもしれないと心ひそかに思っておりました(なんとも浅ましい)。世に出ることより、作り続ける核と言うかベースを作り保つ事の方がずっと大事なのです、もうすぐ40歳の私には。
会期が終わり、撤収も終わり、旧西塩田小学校に集まった作家や作品は散り散りになった。私はこの後、右肩のケガを引きづりながら練馬の小劇団の稽古場の片隅に戻った。この時点で預金残高は20万円ぐらいだったと思う。このあたり2002年の後半から10年以上続く私の金欠病の長患いが始まる。
私には多分、転がり込むという才能がある、稽古場の片隅を皮切りに、塩田平の農家・上田市の職員宅・横浜のシェアハウス・横浜のお金持ちの別荘・千葉の工場の片隅・天草の陶芸工房の片隅など、住むというより「棲む」と、表記した方が当てはまるライフスタイルを身につけてしまう。

練馬の劇団の稽古場という生活は実は楽しかった。将来の事を一切、思考停止してしまっていた浅はかな私は、売れない役者さん達と和気あいあいと貧乏を楽しみながら芝居を、舞台美術を作るという事だけで完璧に満足してしまっていた。でも、あの時私と仲良く貧乏したり大道具を作っていた人で今も芝居を中心にして生きている人は不思議と少ない。距離感を保ちながら責任も担う事が長く続けるコツなのかもしれない。
芝居を作っている生活のなかでもずっと西塩田小学校の事は心に引きずっていた。満足に作品が作れなかったし交通事故で会期途中で姿を消してしまい慚愧にたえない心境であった。一年ほど劇団の舞台美術という生活をしていたが、もう一度、一念発起してちゃんと時間があったらあの時、どんなものを作ったのだろうと自問をして自分の制作に向かう事にした。一年間続いた稽古場生活も2004年の初めには止め上田での制作に再挑戦すべく上田市内の寮付きの工場派遣という仕事を選んでしまった。上田に戻って作りたいものを作るというのは我ながら素晴らしいことだと思うけど、根が本当に浅はかに出来ているのだろう取りあえずとっかりに何でもいいからという短慮さには我ながらあきれ果てる。工場派遣じゃなくて、もう少し準備に時間をかけて東京や富山でまたお金を貯めてそれから上田に取り組むという事も出来たはずである。焦る乞食はもらいが少ないというが本当だ。いまからでも遅くはないと思う腰を据えて淡々と目的に取り組む事が出来るようになりたい。

この、東京で募集され上田の工場に派遣される仕事は三週間で辞めた、漫画のアカギとか小林多喜二の蟹工船みたいに過酷な世界だったからである。

工場を辞めると同時に寮も出ていかないといけないのである、上田市内で家を探そうとすると不動産屋さんにまず仕事をみつけて落ち着いてから探しましょうと諭される、仕事を探そうとすると事業所にまず家を見つけてから探しましょうと諭される…さて二十代なかばで、はやホームレスになってしまった。250万円を持って出郷してわずかに二年半で社会の外に出てしまった。
ホームレスになった私は、かつて意気揚々と5600名以上も来場者を呼び、調子に乗っていた西塩田小学校の体育館の前で寒さにこごえていた、上田市の冬はとても寒いのである。富山の母の所に戻るという選択肢は本当に死にかけたときの最後の手段として避けていた。一週間ぐらいそんなことをしていた。私は恥を忍んで一年半前「海の向こうより山の向こう」の時に仲良くしてくれた小学生の家を訪ねた。少年はちょうど不在であり父君が対応してくれた「うちの子の友達にしてはちょっとデカイね」と玄関口で言われてしまった。私は当時25・6であったはずだ…それにしてもこの時分の記憶は思い出すのがつらい。
「海の向こうより山の向こう」のことは上田市西塩田地区に住む人ならなんとなくは誰でも知っており少年の父君も私の事を何となくは知っておいでであり、私は寮付きの工場を辞めホームレスなったことは内緒にし、作品を作りたくて上田で家を探しているとだけ告げた。その父君はとても親切で、なんと私にハナレを短い期間ならかしても良いという救いの手を差し伸べてくれたのである。そうとうに私は哀れであったに違いなく、土下座のような真似をしてお礼を述べて、その言葉に甘えた。
夕方、帰宅した少年は、私がしばらくハナレで暮らすことを父君から聞かされると、迷惑がるどころかなぜか喜んでくれたのである。久しぶりに暖房の効いた部屋でフカフカの布団で寝た、自分でも気がつかぬうちに体が弱っていたのだろう高熱が出て一週間近く寝込んでしまった、この時は体に力が入らず立つ事もままならなかった。寝込んだ私を少年はよくよく面倒をみてくれた、ハナレで寝込む私に冷たいタオルを額に乗せてくれたり、おかゆをレンゲで口に運んでくれたりした。時は平成、21世紀なのに、冬の信州で行き倒れ、優しい農家の親子に助けられるという、時代劇みたいなことになってしまった。少年やご家族の看病のかいあって私の具合は良くなって気候もわずかに春めいてきた。

当初の目的、西塩田小学校で制作という目的を果たすため住む所はなんとかなった、次は仕事であるがそれもすぐに見つける事ができた、近くのレンタルビデオ屋さんの深夜の受付スタッフ準社員待遇で時給1200円月収16万円という私にとっては好条件の仕事を見つけた。少年の父君にはわずかな額だが家賃を納めさせていただいたので残りのお金がそのまま制作費にあてることが出来る。家・職がなんとかなった。次は車である、これも上田市で食品加工の事業所から出る油を回収して、その油をこして精製して自動車の燃料にしている団体の軽トラを事業所を回って油を集める役目を負うことを条件におかりする事にもなり、あとは西塩田小学校の使用許可である。これも前の経験があり勝手がわかっていた。企画書の作成・提出、役所側が気にする点の追加・修正の即時対応、担当者とその上司への同時アタック作戦など二年前の経験をフルに活用して、市民に芸術表現の鑑賞の機会を与える展覧会の準備と、いう目的でアトリエとしての使用許可も下りた。上田でホームレスになって二ヶ月余り、家・職・制作資金・車・アトリエ、なんとか全部そろった。

ここに至ってようやく私は、社会の外を知りそれでもなお、前に向かうことを知る。IMG_20170817_225646
(「信濃路」2013年 66×44cm アクリル 墨汁)