『傑作は未だか』第五話「秋田から発射、東京難着陸」

第34期(2017年8月-9月)

一点の傑作を作るには、同じ失敗を何度でも繰り返す事が必要だ、性懲りもなく。少なくとも私には。

2008年春、私は六本木で路頭に迷っていた。文字通り路頭にて生き方について悩んでいた、こらからどうしようかと。六本木のあれは確か、よく思い出せないのだけど、オシャレな場所で、近未来な所で、芝生がキレイで車が行き交う道路が近くにあって車道と芝生の間の歩道で、私はこれからどうしようか迷って、一歩も動けず文字通り、路頭に迷っていた。

今までこの自伝ではわりあいコマメに時間を追って皆さんに私の人生を伝えてきた。第4話の最後が2004年の西塩田小学校のでの作品制作のことだった。この4年間の事をかいつまむと、2004年の夏に廃校の体育館でインスタレーション作品を制作・発表。2005年春に上田駅の近くの貸し画廊でまたインスタレーションの発表をして、その直後から秋田県にある劇団の大道具として3年間勤務した。その3年間はほとんど作品は作っていなかったが、北は北海道の旭川から、南は鹿児島の枕崎まで旅公演で全国を回ることができ、大道具という仕事が面白くそれはそれは楽しい3年間であったが、やはり自分の作品を作りたいという疼痛にも似た欲望にさいなやまされ退職。
それで辞めたのだが、次の着地点を確保するということが当時の私は嫌いだった。退職して10日間以内で次の仕事も住居もみつかる、このオレなら知人をたずね歩き、バイトと家を紹介してくれないかと、ちょっと頼むとたちまちみつかるに違いないとタカをくくっていた。また性懲りもなく、上田の時のように運のみに頼って行動に出た。私の大甘な将来への計画は外れに外れ、バイトも家も見つからず、その上、仙台で参加させていただいたお芝居の打ち上げである事情で人を殴ってしまい、居場所を見つけるどころか、なくなってしまった。またしても。

今度は意地を張らずにホームレスはせず、富山の実家に戻った。でも3日程してサラダにかけたマヨネーズに量について「かけ過ぎ、その半分」と母に諭されたのが起因して「やはりこんな狭い所にいたら夢も希望もなくなる」と思い「東北では見つからなかったが、長野・東京なら見つかる」と母に告げ、再び出郷した。2008年春またまた上田市に戻ってみたがこの時はなぜだか、この町で何かを起こそうという気が湧かなかった。当時の私は知らない町で新しい事を始める事が大事だったのだと思う。長野県をあとに埼玉・東京と旧知の人を頼って家と仕事を探したが見つからなかった。そうこうしている間に一週間程すぎた。たしか富山を再出郷するとき5万円だったか、自分で設定した金額がなくなったら諦めて富山に戻ろうと決めていたのだが、気がつくと財布の中には1万円札ぐらいしかなくなっていた。そのタイミングで六本木だった。六本木で美術館を観たあと「お金ない、あてない、どうしよう」と路頭に迷っていた。ウロウロすれば家と仕事が見つかるという自信は崩れに崩れ、これは賭けに負けたな思いながら、母に「家も仕事も見つからなかった、このあと深夜バスで富山に帰る、明朝そっちに帰る」と告げ、近くのコンビニでバスチケットを6000円ぐらいで購入した。目の前に露天で野球帽を売っている異国の人がいた、六本木だなと思った。その人から1000円で野球帽を買った。長いつばで顔を隠せると思った。僕の故郷は人口が少なく町を歩けば必ず知人に会ってしまい、何もできずに帰ってきてしまった姿を幼なじみたちに見られたくなかったのだが、今思えば自意識過剰だ。多分「最近、見なかったな」ぐらいに思われるのがオチだろう。

さて私は六本木の路頭で負けて帰る覚悟を決めた。そう決めてから残ったお金で、今からみれる芝居・みたい芝居をケイタイ電話でいろいろ調べて、中堅演出家の中堅俳優が出ているものがあって観にいった。場所は確か江東区だったと思う、その劇場で当日券配布の列に並び、芝居をみた、内容は覚えていない多分面白くなかった。芝居よりも私は客席にいる、ある舞台美術家のことが気になって仕方なかった。その人とは少しだけ面識があったのだ。芝居がおわり他のお客さんが帰る中、私は恐る恐るその舞台美術家に近づきアイサツをした、覚えていてくれた。「こんなとこでなにしてんの?」「え、絵を描きながら旅をしてて、その終わりに東京に来て、その最後に芝居みようと思って」と半分ウソ半分本当の事を言った。「じゃあ、暇なの?」「まあ」「仕事、手伝なわない?今忙しくて仕方が無いんだ猫の手もかりたいぐらい、君猫よりマシでしょ?」「ニャー」と猫の声マネで返答したのはウソだが、突然、舞台美術家のアシスタントのお誘いを受けてしまった。心中(アーティストになりたいんだから舞台美術は違うんではないか?)、、、と3秒ほど悩んでその有り難いお話を受けてしまった。
そのあとすぐに電話で母に、帰ると言っていたが偶然、舞台美術家に拾われて仕事が見つかった,だから帰らないとだけ告げた。うろうろして最後の最後に本当に仕事を見つけてしまった。我ながら、この時の運の良さは感心する。
さて、この舞台美術家のアシスタントという仕事は、とても忙しかった。「猫の手もかりたい」という比喩はなるほどと、そうであった。たとえばある芝居の打ち合わせがあと2時間後にあり、でもデザイン画が出来ていない、スタジオでデザイン画のおおよそを描いて、あとは打ち合わせに向かうタクシーに乗る、途中、コンビニで雑誌をたくさん買う、タクシーの中でその雑誌の中からこれはと思う写真をハサミで切り抜く、私がそれを指定された所に糊で貼る(貼る場所はもちろん先ほど描かれたデザイン画)、その上からボールペンで陰影みたいなものを上書きするなどなどして、瞬く間にそれは見事な舞台美術のデザイン画を仕上げていく。やりたい事が強くあると、自然と周りの状況がそれに近づくのだと、思った。とにかくそんな感じで、打ち合わせ・模型制作・稽古の立ち会い、、、眼が回るような毎日だったと思う。へとへとになって私はやっと気がつくのだ、これでいいのか?自分の作品作れないぞと。私はだんだん無表情似なり、不機嫌になっていった。拾ってもらったのに。

ある日、舞台美術家のアシスタントを自ら辞めてしまう。事情は細かく描写しないが、あのときは傍若無人な舞台美術家に振り回させれ嫌になってやめたという自覚症状だったが、もう10年もたって振り返ると、多分、私は嫌そうな顔して仕事していたんだと思う。だから、向こうもムカついたんだと思う。本当にやりたい事以外、本当に必要なこと以外やってはいけないんだ。
あの時は、突然、中途半端に辞めた自分にほとほとアキレ果てた。どうしてこんな性格なんだろうと。
アシスタントは辞めたが、ある一つのお芝居だけ深く関わっていてそのまま、演出部(黒子みたいな役割の人)として参加させてもらった。そのお芝居はテント芝居であったので泊まる場所がなかった私には、夜間の警備員も兼ねそこに寝泊まりさせてもらった。
さて、このお芝居が終わったら富山に帰るかと思っていたら、電話が鳴った。旧知の舞台関係者である。「テレビ局の大道具しないか」というお話だった。私はその話を有り難くお受けした。

ここに至ってようやく私は、取り返しのつかないことをしたほうが人生は進むということを知る。

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旅のスケッチ(上田市舌喰池) 2008年 紙・インク