『傑作は未だか』第七話「横浜6年 アートで一杯」 

第34期(2017年8月-9月)

先週は失礼しました。
本来なら秋田での個展のエピソードから、6年棲んだ横浜のことを書く予定でしたが、絵画のコンクールの〆切があって途中でやめてしまいました。本当にごめんなさい。

一点の傑作を作るには他人との摩擦が必要だ。自分には想像もつかぬほどのスピードで走り続ける人に、伴走もしくは後塵を拝しながらでも走りもしくは歩き続けるべきだ。少なくとも私はそうだ。

2009年7月に秋田市で開催した個展はまさに何かも失敗した。「◯◯があったら可能だったのに」というものを自分なりに全部用意した、でも傑作はできなかった。自分の中にある、どうしようもなさぶりが30年も体内で発酵し皮膚表面上までまだら状にあぶり出てきた時期だろう。

まず作品がどうしようもなかった。

デカイということを作品の目的の一つにしてしまった、会場全体の3分の2はある長さ8mの船をイメージしたインスタレーション。方向性と技術が一切ないどうしようもない抽象画ぽっい作品の数々(大小20点ぐらい)。どうしようもない自分の人生をあらわすために、会場の入り口をウロウロしていた時にはいていたスニーカーを展示したどうしようもない安易で陳腐な発想。「列島をかき乱せ!」と題した、変わった事をしたいだけのどうしようもない、話す内容を全く決めずに始めた講演会。。。どうしようもない何も持っていないヤツが、ただ目立ちたくて人前に出て何もできずにただ、奇声をあげて、行き交う人とは目が合うが無視され続けた、と、いう感じのどうしようもない展示だった。でも、来場された方には作品では何もできなっかたのでトークの方で笑っていただいた(地元のラジオが中継に来てくれたのだが、その人達には大ウケだった、今度スタジオにも来て下さいとも言われた)。
個展が終わり、会場の方に感想を聞いたら、「売れようという気が会場にみなぎり嫌な感じがビンビンした、いつものアナタらしくない、どうしたの」と非常にキツい口調で叱咤された。泣き崩れた。巨大で重たいリックサックを背負っていたし、1週間野宿して疲れていた、というのもあったが、見たくない自分の現状というか弱点・汚点を尊敬している人に打撃され、どうしようもなくオイオイ、呼吸が困難になるくらい泣いてしまった。それくらいみっともなく泣いたら許してもらえる・チャラにしてもらえるかも、と、いうどうしようもない思惑も働いた。

会場のレンタル代や東京への帰りの交通費は作品の売却利益を見越していたが、全くお金にならなかったので、とある所でお金をお借りして用意しました。
今、あれから8年くらいたって振り返ると冷静に反省できるけど、あの時は、「あれだけ・これだけ頑張った、なのになにも、お金も含めて得るものがなかった、どうしよう」と、途方にくれて秋田をアトにしたような気がする(こう振り返ると、自分が少し『阿Q正伝』の主人公が似てるなあと、思う)。

東京に帰るとまた、大道具の仕事が入った。今度はミュージカルのスタッフという、上演中にセットを役者の動きや音楽に合わせて動かす仕事をさせてもらった。その仕事をしながら、東京千川のアパートで、白黒の風景画を描き始めた(やっと今の絵の仕事につながる)。
富山の灯台がある風景画・上田市の木造校舎がある風景画・ある思いがあって見に行った岩手県の吉里吉里の風景画(震災とは関係が無い)などを描き始めた。自分の過去にまつわる風景を描くという、自分だからできる事にようやっと表現のベクトルをしぼり始める。
この白黒の風景画は東京都東大和市の森の中で発表した。東大和市にあったNPOが主催する野外展で風景画が描かれたバス停として制作した。えー、、、自分でつくった作品を上手くつたえれるか自信が無いのですが、外壁に風景画が描かれたバス停を作ったんです、インスタレーションと風景画が合体したと言えばいいのか。とにかく風景画のバス停を作ったんです。これが、確か2009年の10月ごろ、秋田の個展で泣いて帰って来て3ヶ月後(だんだん作品を作って発表する事が身について来た)。

さて、よーやっと、今回の本題、横浜に引越します。2010年5月くらいに千川のアパートを引き払って、横浜の初音町という所に引越します。
横浜は、カインの末裔のような私が6年も棲んでいたということもあり。日々苦悩・毎日が祭り!安定なき前進!!それでも作っては出す!!!作っては出す!!!!バキューンバキューンという、まあ上手く伝えられないけど、、、作品を作り続ける敬愛すべき画家や彫刻家や陶芸家や映像作家やダンサーたちに囲まれ、学芸員や自営業の展覧会の企画者(インデペンドキュレーター)やギャラリー経営者にも作品をみてもらう機会にも恵まれ、デザイナーや文筆家やまちづくりの仕事の人や女優さんや建築家やイタリアンレストランやってる人とか、尊敬できて一緒にいて楽しい人達に囲まれ、モンパルナスやソーホとかってこんな感じかなと思う場所で、カインの末裔のような私にとっては居心地がとても良かった場所でした。

私は20代、富山を出て、横浜のBゼミという現代アートの私塾に通っていた。その時の知人が横浜初音町にアーティストばかりのシェアハウスに居て、出て行きたいと思っている、ついては空きになるその部屋に移り棲んでくれないかという誘いに乗ったのだ。
横浜市は大都会でそこがアートでまちづくりをしている、ということぐらいは知っていたので、そこに棲めるというだけでなんだか、やっとアートの入り口に立てるような気がして過剰に興奮した(今思うと、健気でバカだ、本当は絵を描く人ならカンバスの前に立つ時・描きたいキレイだなと思うときがアートの入り口だと思う、そこがどこだろうが)。

頑張って作品を作っている人が自分の生活圏内にウロウロしている状況に自分を置く、そのことによって自分も高まっていくと、思った。この期待は確かに叶えられた。
そのシェアハウスには私より3歳ぐらい年下の若い画家がいた。油彩で風景画を描く人で、寡黙で暴力的で読書好きでオダギリジョーに似てて女性にもてて、絵に描いたような画家が居て、その彼に美術施工の単発の仕事を紹介してもらってなんとか食いつなぎ、彼や彼の友人達を見習って日常的に作品を作っていく。シェアハウスに移り住んで半年経つか立たないかのタイミングで私は、神奈川県美術展の県立近代美術館賞を受賞し、同館の収蔵作家になってしまった。嬉しかった、少しだけ報われたような気がした。

横浜のそのシェアハウスのすぐ近くに、黄金町という町があり、幾人ものアーティストがスタジオを構えアートでまちづくりをしていた。大きな芸術的刺激を受けた。黄金町のすぐ近くに伊勢佐木モールという歩行者天国があって24時間やってる牛丼屋さんや大きな本屋があって、夜になると酔っぱらいやホームレスがいてその伊勢佐木モールを通過して、関内のオフィス街に入ると、私がリノベーションの施工で少しだけ関わったシェアオフィスがあってデザイナーやライターがたくさんいて、夕飯どきにそこ行き、お忙しい皆さんの夕飯を私がまとめてお作りいたしますと、お一人200円とか300円とか集めてそこのオシャレなキッチン(ただオシャレなだけじゃなくてアーティストが独自のセンスで精魂込めて作られているキッチンなのよ)で、私がチャーハンとか作って差し上げると、私は一円も使わず夕飯にありつけ、作り過ぎて余ってもったいないからお持ち帰りして翌日の朝ご飯もお昼ご飯もそうやってすました。関内でそうやって奉仕活動と食料の確保をすまし、関内をすぎて海岸通りを行くとバンクアートという夜までやってるアート施設があり、そこで展覧会観てまた芸術的刺激を受け、くっると踵を返して初音町に帰る。途中、野毛という酒を飲むための町(居酒屋等が500軒)に迂回して寝る前に呑む。という毎日を送る!と、書きたい所だが毎日ではなくそういった事をときどきしていた。

作って、呑んで、バイトという日々。本当にたくさんの作家や作品に出会い自然に自分というものがわかってきた。

ここに至って、ようやく私は欲しいものがなんなのかわかり、それを手にするために神経を注ぐ事をし始める。

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「Iori IN 狭山」2009年 高さ400cm×150cm×180cm アクリル・パネル・竹

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「笠間の草」2010年 約50cm×75cm アクリル・墨汁