屁と私。

第36期(2017年12月-2018年1月)

自分自身の変化に対して、人は鈍感である。

屁をしながら、最近そのような事に気付いた。
と言うより、屁をしたから気付いたのだった。
なぜなら、自分の屁にただならぬ違和感を感じたからである。つまり、屁が臭くないのである。
今年の冬は屁が臭くない。毎年何故か、冬になるときまって屁が臭かったのである。「冬の屁」とかなんとか、自分の中での季語にしてもいいくらいのものであった。

それは衝撃の変化であったのだ。


私の父をして

「お前の腸は腐っている!!」

…と言わせしめた私の屁である。
あまりに酷い臭いがするものだから、父は私の腸が腐っていると断じたのだ。と同時に頭もはたかれた。
彼の怒りは真剣だった。

そのように断じられた私は三重に悲しかった。

第一に、
父からはたかれた悲しみ。

第二に、
父に手をあげさせてしまう程の臭気を放つ自分の屁に対しての悲しみ。

第三に、
私が制御できない生理現象である所の屁の臭いに対して、その制御を求められる理不尽さへの悲しみ。

あ、四つ目もあった。
その深い悲しみを私にもたらしているのが「屁」というマヌケ極まりない事実。
それが実に情けなく、悲しかった。

どんなに重厚な語り口で語っても、
そう例えば、ゲーテが深刻に真面目に語ったとしても、その悲しみの原因が屁だったとしたら、
「なーんだ、屁か」と一笑にふされるだけであろう。

KIMG3191
(↑新明解国語辞典「屁」)

屁の悲しみと言うのは、
その悲しみが深ければ深いほど、
それに比例して、おかしみが増大してしまうというものである。

「存在の耐えられない軽さ」と誰かが言っていたが、まさしくそれであり、どこまでいっても軽いのである。それが屁なのだ。恐ろしい。

長野に居を移し、
もはや父とは生活を共にしてはいないから、その怒りをかうことはなくなった。
しかし、処を変えども私の屁は、屁の臭いは健在であった。我が屁に転地療養は無効であった。その被害いや屁害にあっているのは妻および娘である。

娘は幼い事もあり、まだ私の屁の恐さをわかっていないようだが、可哀想なのは妻であった。
妻曰く、「温泉卵が腐ったような硫黄臭」であり、
その臭いを嗅ぐ事は耐え難く、実に腹立たしく、忌々しいことである、と。

本当に申し訳ない。
本当に申し訳ありません。
弁解の余地はありません。
悪気はないのです。

私とて漫然とこくがまま、屁をひっていた訳ではない。出来うる限りの対策を講じたのである。つまり、ヤクルトを飲んだり、ヨーグルトを食べたりして
我が腐った腸の改善に努めてみたりした。
そんな努力を嘲笑うかの如く、私の屁は依然臭いままだった。我が屁の闇は深く、果てしなく続くものと思われた。


私はヤクルトを飲み飲み、いつ明けるともわからない屁の闇(臭いとも言う)の中で過ごした。そんな暮らしを続けていたある日、一つの光明となる言葉にであった。

「屁のような人生」

尊敬する水木しげる大先生の著書のタイトルである。
大先生は人生を屁と断じられたのであった。
まさに人生を屁で躓いていた私には、そもそも人生それ自体が屁なのであるという考えは大いなる救いとなった。さすが水木大先生である。

「屁のような人生」、これは「存在の耐えられない軽さ」の対極にある考えである。

KIMG3192
(↑新明解国語辞典「存在」)

「存在」と言うと、ちと重々しい感じがする。何やら確たる実体がありそうな感じだ。故にちゃんとしなきゃいけなさそうである。その重さが軽いとなると人は耐えられなくなってしまうのだろう。

対して屁とは「現象」である。
人間の体内で生成せられたガスが、尻から放たれて、一定時間臭気を放ち、たちまち霧散する。何かが、こう重々しくデンと「ちゃんと在ります」と言う感じで在るわけではない。発生して、周囲に臭いと言う違和感をふりまき、たちまち消える。極めて軽やかだ。

KIMG3193
(↑新明解国語辞典「現象」)

私は、私の屁および私自身を笑い足りてなかったなぁと思った。屁はしょせん屁であり、それはただただ軽く、おかしみがあるだけで、深刻ぶっても屁。どこまでいっても屁。そして、人生もまた然り。
だから、どこまで笑えるものなのだ。

そんな屁のような人生の中で、屁が臭くて悩んでいる私。実にマヌケで笑えるなぁ。
それでいい、と言うことだ。

ま、家族には屁害が及ぶのだが。。。それもまた、屁害かぁ、マヌケで笑えるなぁ、だ。(怒られそうだ)

そのような訳で、「屁のような人生」と言う言葉をそう解釈し、屁の臭気からも人生からも一挙に救われてしまったのであった。


そうして、今年の冬は屁が臭くないのだった。
もしかしたら、自分やら人生やらの重さに耐えかねていた私の中の何かが、屁の臭気として現れていたのかもしれない。気付け、気付けと臭っていたのかもしれない。

いや、しかし、屁の臭いから人生が屁のようなものだと気付くに至るとは何が契機になるか、わかりませんなぁ。おかげで以前より軽やかに我が生を営んでおります。

自分もだが皆も一生懸命生きているけれど、屁のようなものであり、たちまち消えていくのだなぁと思えるからである。なんせ屁である。どうしても儚さよりおかしみが勝る。これがよいのだ。真剣だけど深刻ではないのがね。

皆、等しく屁。
どいつもこいつも各人各様の臭いや音を周囲にふりまき、いずれ霧散するだけの現象。人の織り成す社会とは、各人がひりだす屁の和音とも言えるのではないだろうか。ま、ただの暗喩表現なだけなのだが。。。
しかし、そう思うと愉快、実に愉快。

そんな訳でして、まさに異臭を放ち続けていた当連載もこれで終わりです。屁のように消えていきます。
それでは、さようなら。