パリジャンとパリジェンヌ

第38期(2018年4月-5月)

マレの表通りを歩いていると、向こうからブロンドの女が歩いてくる。もはや黄金の時代は過ぎたといった風で、紺のスーツで身を包み、軸の短いハイヒールの音を高鳴らせ、急ぎ足でこちらに向かってくる。ふと、一枚のポスターの前で足を止める。仁王立ちで選挙用のポスターの前に立ち、じろりと一瞥をくれると、右手でもってポスターを破り取り、丸めてぐしゃぐしゃにして地面に叩きつけた。さすがのパリジャンたちもこの異様な光景に視線を奪われる。だが、とうの本人は何事もなかったように再び歩きだすと、僕のそばをすり抜け、人ごみに消えてしまった。残ったのはあっけにとられて動けずにいる僕と、無残に転がる紙屑だけだ。パリの住人は感情を隠さない。こうやってすべてを表し、すべてを語りつくす。

まったく、たまんないね。
      この街は。

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 パリの路上には、煙草の吸い殻がそこら中に落ちている。特に多いのがうす茶色のフィルターのかすで、どうやらマルボロが人気なのはどこでもおんなじらしい。人々はそこかしこでタバコの煙を上げる。人通りの歩道で。分離帯の真ん中で。パリではホテルより多いといわれるカフェのテラス席で。とかく、パリと煙草には深い関係があるようで、美しくおしゃれなパリジェンヌの街などと抜かすのはパリを見たことないか、それかパリの綺麗なところしか訪れていない連中だろう。歩き煙草というものは、東京でやってしまえば二千円の罰金となってしまうわけだが、ここでは日常なのである。だからこそ、僕はこの街を愛している。街をふらついていると男たちが僕のもとへやってきて、何かフランス語を並べ立てる。そんなときは、素早くポケットから煙草の箱を取り出すといい。一本を抜き取り、メルシィーなんて言いながら去ってゆくだろうから。面白いのはそこには階級が存在しないことだ。見るからに落ちぶれた浮浪者から、上等なスーツの親父まで分別なく僕の煙草を奪ってゆく。なんたってパリの煙草は高いのだ。日本の倍くらいはする。

 煙草にいくつか効用があるとして、思考を加速させるもの、としてひとつ。そして、空腹を紛らわせるもの、としてもうひとつあげられる。パリの街にはこれらの効用が必要だ。

前者において。煙草を吸うと、頭の中に、濁った煙が入り込んでいくのを感じる。綺麗な真水に泥水が入り込むみたいに、僕はピュアな思考を保てなくなっていく。美しく澄み切ったパリの空を見ていても、頭が重く、さびた機械のように鈍い。僕は純粋にパリの街を楽しめなくなってしまう。だが、こと創作においてはこれでよいのだ。少し苦しんでいるくらいの方が、よくペンが走る。右手は自然と動き始め、僕の意思とは関係なくノートの上を滑ってゆく。心の奥底にある、煮えたぎる油のような観念が徐々に漏れ出し、白い紙が黒い文字で埋まってゆく。作家の街パリの創作はこうして支えられている。同時に、思考は渦を練り、それは彼らの討論をより深遠なものへとしてゆく。カフェでの論議はそれがパリジャンたちの性質とも合わさり、より活発さを増していくわけだ。

後者について。これはパリの街にあまた存在するホームレスにわかりやすい。マレの飯屋通り、広場をつなぐ小階段に薄汚れたひとりの男が鎮座している。何日も着替えてないであろう服はすっかり色あせ、茶色く変色する。彼は煙草を吸っていた。物乞いの男たちに、人々が情けをかけてくれてやるのはたいてい1か5セントで、そんな小銭で煙草を買えるはずもない。だから、彼らはどこかで拾い集めたシケモクを、うまそうにふかす。彼らは煙草を、手が熱くなるほど短くまで吸い続ける。薄汚れた黒のカバンを椅子代わりにして座り、何日もシャワーを浴びてない茶色けた手で、煙草を大事そうに握りしめる。時折、喉を洗い流すかのように、安いビールを流し込む。僕が一本を吸いきってもなお、彼は小指の第一関節ほどの短い煙草を握ったままだ。彼らにとって空腹とは戦うべき敵であり、飯を買う金などもちあわせていないので、煙草によって空腹を紛らわせることは、ひとつ生き抜くための手段である。彼と同じように薄汚れた、ヨーロッパ式の石造りのビル群の谷間で、この男は行き交う人々をうつろな目で見やる。苦しそうに煙草を吸いながら。手を熱にやられながらも、ひたすらに耐え、求め続ける彼ら。僕はその姿を、美しい人間の形だと思った。

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パリを愛したアーネスト・ヘミングウェイの言葉にこんなのがある。

「もし、きみが、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、君が残りの人生をどこで過ごそうとも、それはきみについてまわる。
なぜなら、パリは移動祝祭日だからだ」

また僕は、あの街に戻ろうと思う。煙草の煙が立ち上り、人々が感情を、自分自身をさらけ出した、あの汚らわしくも美し、花の都へと。