生きて生きて、からの、ニルヴァーナ。

長期滞在者

大変遅ればせながら、明けましておめでとうございます。
昨年末から2ヶ月ほど留守をしましたが、みなさんいかがお過ごしでしょうか?

そういえば、年末にはアパートメントのクラウドファンディングが目標額を達成したという、
おめでたい(すでに懐かしい?)話が飛び込んできて、
ぼくも遠隔ライブイベントに参加しました。
ただのお喋りで時間があっという間にすぎてしまった感もありましたが、
なかなか楽しい時を過ごすことができました。
みなさん、ありがとう。

そういえば、その時にどんな音楽で目を覚ます、というか体を覚ますか、
という話題になった時にあいみょんの名前をあげたんですが、
その後まだ、いまだに彼女の曲にハマり続けています。
以前も書きましたが、ぼくは米津玄師さんの音楽もとても好きで
よく聴いているんですが、
彼の曲は聞けば聞くほど細部が作り込んであるのが聞こえきてて、
そのアーティスティックな手法みたいなものに思いを馳せることになり、
こっちも集中してアーティストモードになり、
つまりついつい仕事モードになってしまいがちです。
それはそれでもちろん大歓迎なんですが、
何でしょうか、あいみょんの場合は彼女の歌詞の辛辣さや正直さなんかが
そのシンプルな楽曲と絶妙にあいまって、
何というか、金平糖か何かを節分の豆がわりにパラパラと投げつけられて、
普段のつまらない思い込みやこだわりみたいなものが追い払われるような、
そんな清々しい感じがして、普段着な感じでずっと着流して聞き流していられる
そんな感じがするわけです。
で、その投げつけられた金平糖の感触が心地よいというのもあるんですが、
あいみょんの曲、歌詞のすごいのは、
時々聴き手の感情を不意打ちのように奥の方から揺さぶってくることがあるところで、
例えば、『生きていたんだよな』という曲を運転中の車内で大声で歌っていると、
ものすごく感情が揺さぶられることがあって、不覚にも泣きそうになったりします。
サビの部分を抜粋すると、

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
生きて生きて生きて生きて生きて
生きて生きて生きていたんだよな
新しい何かが始まる時
消えたくなっちゃうのかな

今ある命を精一杯生きなさいなんて綺麗事だな
精一杯勇気を振り絞って彼女は空を飛んだ
鳥になって雲を掴んで
風になって遥か遠くへ
希望を抱いて飛んだ

生きて生きて生きて生きて生きて
生きて生きて生きていたんだよな
最後のさよならは他の誰でもなく
自分に叫んだんだろう
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

という感じです。
まず、生きて生きて生きて生きて生きて、
と連呼するところは空海の
「生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し」
を想起させるインパクトをすでに持ってるわけですが、
それが過去に生きていた人を思い出すようになっている。
要は今は亡き人のことを思い、
その人の心情に共感しようとしながら、
共有しようとしているように感じられます。
つまりこれは挽歌で鎮魂歌なわけです。

そして、さらにぼくにとってのツボは、
「今ある命を…希望を抱いて飛んだ」の部分で、
大人のわかったような口ぶりを否定して、
自殺した「彼女」の唯一の希望が「飛ぶこと」だったんだ
と「彼女」の逆説的な立場を擁護しているんですね。
そしてその次のフレーズでその希望の刹那を描写している。
マイノリティー側のか細い叫び声の側に立とうとしている、
その確固とした意思がロックっぽい、と言いましょうか。

そして何よりも一応「大人」であるはずのぼくとしては
ともすればぼく自身が簡単に若い人にとってしまいそうな態度を
突きつけられてドキッとしたりするわけです。
この辺の感じ、か細い声を聞き取ろうとする努力は
それが他者に対してであれ、自分自身に対してであれ、
どんなに年を重ねたとしても、というか、
年を取ってしまったからこそ
忘れてはならないことなので、
そしてそれは誠実に異端であり続けるための努力、
ということでもあるだろう、
とそのように感じたりもするで、
ぼくはこの歌を車内カラオケで歌いながら
(そしてちょっと泣きそうになりながら)
自戒しているというわけです。

とまあ、この曲だけでも色々思うことがあって、
あいみょんの作品については他にも
たくさん気になることがあるのですが、
他にも書いておきたいことがあるので、
話題を変えます。

去る1月11日に初の個展となる「Shiro 白」のオープニングがありました。
この展示を設置しながら、また色々と考えていたんですが、
それに関して、一つだけ書き残しておこうかと思います。

今回の展示は今までにぼくが作った陶器と写真とビデオ作品を使って
会場の地下にある真っ白な空間で冬の庭園をイメージして構成しました。

これまでにも何度か自分の陶器を使ったインスタレーション作品を
展示してきたんですが、ことの成り行きでそこに花やら枝やらをいけることが
よくありました。
ちゃんと生け花などを習っていないぼくは、
常に「なんちゃって投げ入れ」的な感じ、
というか、やっつけ的な感じで植物をいけてきたわけです。
とはいえ、花をいけるのは好きだし、
花には敬意を評したいと思う気持ちもあるので、
経験が無い分、関連読書や花に関する写真集などを眺めることで、
それを補おうとしてきました。

その経緯で、いけばな関連の情報に接することが多くなるのですが、
そこでよく目にし、引っかかっていたのは中川幸夫さんの作品集で、
とにかくむちゃくちゃ見た目のインパクトがすごくて、
恐ろしいほどに肉体感がほとばしっていて、
しかも各方面から高評価を受けているようだし、
目にした限りではその書も素晴らしいし、
来歴を調べても何やら凄まじい人生を送った人らしいし、
いろいろこの芸術家に関して見聞きしていると、
表現とは、芸術とは、花をいけるとはどういうことか???
とかいろいろ深く考えさせられてしまうし、
この人の作品が理解できなければ、
ぼくには花をいけるセンスがないということなのかもしれない、
(センスなくても好きだからやるけども笑)
とか思ったりもしたんですが、
なんというか、どうしても好きになれなかったのです。
そして今でも相変わらず全く好きになれてないんですが、
今回の展示を仕込んでいるときに、
その理由がひらめいた瞬間がありました。

今回の展示のために作った多くの陶器を展覧会場に運び込み、
さて、どこから手をつけようか、と思いながら、
全く予定していなかった、下の写真の展示を設えた後で、
なんでこれがピンとくるのか、なんでこれが今見たいものだ、
と感じたのか、とつらつら思い巡らせていたところ、
この横たわった枯れ枝がブッダの涅槃像に見えたのでした。
で、その時に、あぁ、このピースフルな感じ、
平和に瞑想していくように生を離脱していく「死」のイメージ、
そういうのが自分は見たかったのだな、と納得したのでした。
枯れ果てて抜けていくような感じ。
そこに残された「本質」(エッセンス)の形状。
そういうものが見たかったのだな。という感じ。
中川幸夫さんの作品は観ていて苦しいのです。
そこから伝わってくる思いが重い。
そしてそういう激越な苦しみや苦悩を抱えてこなかったことを
悔いたり残念がったりしてしまう自分がそこにいるのを感じ、
なんだか自分がつまらない人間に思えてしまったりするのです。
(これ多分、あれに似てるんです。
ジムに通ったりボディービルをやってる人の身体つきを見て
ちょっとしたコンプレックスを感じるあの感じに似てるんです。
ぼくにはこの感情表現に於けるマッチョさが煩わしいのかもしれません。)

もちろんそれは彼の作品そのもののせいではなくて、
ぼく自身とその作品の間に発生するものなので、
それを発生させないようにするためには、
おそらくそこから立ち去るしかないのです。
そして立ち去るためには何かしらの「批評」的な活動が
必要なのだと思います。(決して「批判」ではなく)
今まで思い倦ねていたことに関して、
たまたまこのインスタレーションを作る活動が、
それに対する「批評」として結実したのだと思っています。
そしてこんな風に考えがまとまった時、
心の中の風通しが少し良くなったような感じになりました。

この展示はここ7、8年ほどのぼくのアーティスト活動の集大成的な部分もあったと感じているので、
これについてはまた書くことがあるかもしれません。未定ですが。では。

タイトル「ニルヴァーナ」

「ニルヴァーナ/涅槃」