暗室と包丁

長期滞在者

最近、フィルムを使って撮ることが増えている。

仕事 (営業写真館のカメラマン兼レタッチャー) ではもう10年以上デジタルカメラを使っているけれど、仕事ではない「自分の」写真にデジタルを使い始めたのはここ5年くらい。フィルムを併用しつつも、最近はデジタル比率がぐんと増していた。
デジタルというのは簡便だと考えられがちだけれど、機種ごとの使いこなしや絵柄の癖に慣れるまで時間がかかるし、プリントにも銀塩 (フィルム/印画紙) とは違った苦労があるので、ここ数年はそちらに没入してしまった。銀塩とデジタルの両立というのは、なかなかに難しいものなのだ。
加えて、最近のフィルムや印画紙の急激な値上がり。銀塩比率は急傾斜で下降せざるをえない。

それが、昨年末にモノクロームの企画展に出展することになり、デジタルモノクロでも良かったのだけれど、どうせならと、ふだんは荷物置場になりかけている暗室を久々に片付けた。
無精な僕でも一応暗室にはノートを置いていて、現像液をいつ作ったとか、何日にフィルムを何本現像したかとか、◯◯展のためのプリントを何カット何枚プリントしたとか記録をとっているのだが、調べてみたら、現像もプリントも、ここ3年で3回ずつしかしていない(苦笑)。
年1回ペースでは自宅暗室の意味もなく、つぶして倉庫にでもしたほうがましである。
さすがにちょっと反省して、今年はもうちょっとフィルムカメラで撮ろう、という年の初めの抱負なのである。

で、そのモノクロしばりの企画展のために1年ぶりで暗室でプリントしたのだが、ああ、やっぱりこれを忘れちゃいかんなぁ、と思ったのだった。

久々に買ったフィルム (1本800円もする!) で、ちゃんと撮影もしていたのだけれど、仕事の大繁忙期でフィルムを現像する暇を逸してしまった。
搬入までに暗室に入れる日は1日しか作れそうになく、今回はフィルム現像を諦めて、3年前に撮ったネガでどこにも発表していないのがあったので、それをプリントすることにした。
現像液は1年前に溶いたものだが、密封してるし容器の中にたっぷり入ってるし (空気の割合が少ないので酸化もそんなに進んでいないだろう)、それもまぁ、古酒の味わいと思えば何とか。新しく作ってその日に使うよりはいいかな、という判断 (現像液は作って1日は寝かせたほうが良いと言われる)。

通販で買った印画紙は初めて使う銘柄で、癖も何もわからない。以前使っていたものが軒並み製造中止で手に入らなかったのだ。
初めての印画紙を、1年寝かせた現像液で使う。なんというか、無謀を通り越してデタラメであるが、あまり大きな声では言えないが、こういうスリルも暗室の醍醐味である(賛同者は少ないと思う)。

密栓していても酸化は進んでいたようで、10枚もプリントすると、最後の2枚ほどは全然黒が締まらなくなった。しかし最初の方にプリントしたものはちゃんと綺麗に階調も出てるし、久々にしてはなかなか良い出来上がりである。
後から聞けば、今回使った印画紙はカタい(階調の幅が狭い)と不評な種類らしかったのだが、ヘタッた現像液が功を奏して、カタさを和らげてくれたようなのだ。
僕のあまり緻密ではない性格がかえって良い結果を導くこともあるのである。

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ところで先日、料理人で写真も撮るズーさんと、菓子職人で写真も撮るリサさんと、一緒に飲んでいたときに、料理と菓子の違いについて二人が話していて、分量・時間・温度・タイミング、すべてに厳格さを求められるのが菓子職人、逆にその場その場の瞬間的判断で常に変化を求められるのが料理人、みたいな話になって、ああ、フィルム現像は菓子作りで、プリント作業は料理の方だなぁと妙に納得したのだった 。
撮影はもちろんだけれど、プリントも、液温や室温や、印画紙の種類やロットの違い、現像液の状態、さらには自分の体力や目の調子や、いろんなものに左右される。

昔に撮った写真を、何度もプリントすることもあるのだが、どういう濃度でどういうコントラストでプリントしたいかは時々の気分で変わるから、同じネガでもプリントは全然変わってしまう。
いや、気分なんて言うといいかげんに聞こえるかもしれないから言い直すとすれば、その時々の自分の目や体が要求する濃度やコントラストがあるということ。

アートの世界の価値観が写真の世界にも入ってきて、版画のようにエディション(流通数)管理をして、エディション10なら10枚同じクオリティの写真しか流通させてはいけない、みたいな考え方もあるけれど、「ネガは楽譜、プリントは演奏」という有名な言葉に乗っかるならば、やっぱり演奏はその時々の自分の状態で変えるのが正しく思える。

デジタルの場合は、プリントするたびにRAWデータを出してきて現像しなおす、なんてことはしないから、一度プリントの調整をしてしまえば、何枚プリントしようが同じクオリティのものを作ることができる。
デジタルにはデジタルの長所もあり、銀塩では撮れない世界もあるので、もちろんこれからもデジタルカメラでの制作を続けるんだけれど、やっぱりたま〜に物足りないなと思ってしまうこともあるのは、こういう料理人の塩梅みたいな即時感を求められないからだろうなぁ。写真とはとりかえしのつかなさとの格闘であるということを忘れないための暗室作業。

ただ、デジタルカメラ百花繚乱のこの時代に、「選択肢の一つとしてとして」銀塩フィルムを使うことの意味は常々考えてなきゃいけないとは思う。
もちろんノスタルジーじゃ駄目だし、書いておきながら何だけど「料理人的職人芸」を誇示するだけなのも違う。
内輪の些末な技術論に陥りがちな世界だが、そうではなく、CCDかCMOSかみたいな話の続きで語れる、選択肢としての銀塩フィルムの使い方、みたいなのを探していけたらなぁ、と、何となし、思ってみたり。
まだまだ見たこともない写真が銀塩で作れるんだぜ、という希望がないと、そりゃフィルムも滅ぶしかないだろう。

と、そんなこんなで、色々ぐるぐるしつつ、今年も頑張ります。

ao4

(銀塩とデジタルについての話はこちらもどうぞ → 『連続と離散についてのあれこれ』