ホームランを聴きに

長期滞在者

職場に去年から入ってきた若い女子が、聞けば相当ディープにプロ野球の、しかもここは関西なのに北海道本拠のファイターズの大ファンなのだという。タイガースかバファローズなら観戦も楽なのに、因果なことである。
もちろん定期的に北海道にも行くし、普段は京セラドームのバファローズ戦に通い、超望遠レンズをレンタルし、記者席横の特別ブースの料金を支払い、ファミリー向けの小さな一眼レフ(EOS kiss X7)をレンズキャップのように望遠レンズのお尻にくっつけて、玄人はだしの写真を撮ってくる。もっと反射神経のいいEOS-7D系のカメラを与えたらさらに凄い写真を量産しそうだ。好きというのは凄いことだと思う。
目下の彼女の悩みは、来年からファイターズのキャンプ地が沖縄からアリゾナに変更になることだそうで、アリゾナ・・・とため息をついている。煩悶の結果、結局アリゾナにも行っちゃうんじゃないかと思う。誰も彼女を止められそうにない。
有能な人材なので職場としては出て行かれると困るが、もし出て行く理由が「ファイターズの広報に就職決まりました!」だったとしたら、もうこれは笑って送り出すしかない。
とりあえず頑張ってほしい。まずはアリゾナ。

かくいう僕も、大昔の話だが球場に通い詰めた時期がある。大学に籍はあったもののほとんど通わなくなっていた二十歳前後、大阪球場の外野席のゲートが20時を過ぎると無人になるのを知り、それこそ全開催試合の半分くらい(つまり年間30試合近く)は外野席にいた。20時過ぎからなので後半の3回くらいだが、それでも何回かに一度は奮発して試合開始からちゃんと券を買って入ることもあった(外野席700円だったと記憶)。
難波に大阪球場があり、現ソフトバンクのホークスが南海ホークスだった時代である。穴吹監督から杉浦監督、そして福岡ダイエーに身売りされるまでのほんの数年間の話だが、憑かれたように大阪球場に入り浸っていた。

なぜ南海ホークスなのかと思い起こしてみれば、もっと小さい頃、小学三年か四年あたりだと思うが、チケットをもらったとかで家族で大阪球場に出かけたことがあった。野村克也が選手兼任監督で四番・キャッチャーだった時代である。野球に特に興味もなかった僕は、試合開始前、すでに退屈して内野席の金網に登って遊んでいたのだが、このときグラウンドの選手に「危ないからそんなとこ登ったらいかん。降りてくれる?」と注意された。ホークスのユニフォーム、まぎれもなくプロ野球選手である。
野球に興味がない、といいながらも、プロ野球選手と口をきいた(注意されただけだが)ということに僕は舞い上がった。南海ホークス背番号51番。プロ野球選手名鑑というものを買ってもらって調べたところ、彼の名は山本雅夫。のちにジャイアンツに移籍し代打で「左殺し」の異名をとった選手である(水島新司『あぶさん』にもよく登場した)。

現金なもので、この日を境に僕は大のホークスファンになった。
山本雅夫はジャイアンツに去ってしまったが、軟投エース西川(打たれない方がおかしいようなノラクラ投手。実際よく打たれた)、無駄に男前な内野手・森脇(今年前半までバファローズで監督してましたね)、ドカベン香川(最近亡くなられた。ご冥福を祈ります)、滅法足が速いがあまり打てない「佐賀の韋駄天」山口裕、キャッチャーなのに当て馬に使われる謎の男・岩木、二人ともジャイアンツの選手の兄である河埜と定岡、「ドラさん」ことカズ山本、四番はもちろん門田。弱かったが味な選手はたくさんいた。
当時のパ・リーグは本当に不人気で、大阪球場もいつも閑古鳥、ひどいときなんか、いかにも雨の降りそうな天候だったとはいえ目視で数えてみたら160人しか観客がいなかったことがある(実際途中で大雨になって試合中止になったのだが)。その日は特殊だったにしても、それでもいつも観客1000人以下なんて当たり前。3万人収容できるはずの観客席はいつもスッカスカだった。
もう覚えている人も少なくなっただろうが、大阪球場は難波駅すぐそばという地価の高い場所にあったためか、底面積を切り詰めた、観客席がすさまじく急傾斜のすり鉢のような球場だった。そのすり鉢球場で、スタンドの1割ほどしか観客が入らないもんだから、打球音がものすごく反響する。打球音だけでなく、飛ばした野次も山彦になって帰ってくるくらいだ(本当の話)。

門田や香川といったパワーヒッターは、いつでもフルスイングである。弱い球団だったので逆にチームプレーなどには縛られなかったのかもしれない。常に一発狙いである。門田なんか空振りしたら体が一回転して尻餅をつきそうになっていた。
そんな彼らのホームランは、ほんとうに美しかった。低い弾道もそうだが、何よりもその「音」がたまらない。
しんとした野球場に響くキン! という打撃音。すり鉢スタンドが生む反響がすぐにまとわりつき、複雑な厚みを帯びてゆっくりと減衰していく。陶然とする美しさである。
正直、勝つの負けるのなんかどうでもよかった。門田や香川のホームランの打球音を聴きに球場に通っていたといっても過言ではない。

僕は大学にほとんど行かず、アルバイトをしながら劇団に籍を置き、しかし舞台活動に全霊で没入していたかというとそうでもなく(高校時代から演劇にかかわってきたが、どうやら役者には向いていなさそうだとようやく気づきはじめていた)、寄る辺ない気持ちのまま大阪球場の外野スタンドでひとり座っていた。ほどなくして大学を中退し、所属していた劇団は解散して、人生のアテというものを喪失して途方に暮れた。まだ写真に出会ってもいなかった。何をして生きていったらいいか、さっぱり先が見えなかった。
そんなぐだぐだな時代に、門田・香川のホームランの音は、唯一スカッとぐだぐだを吹っ飛ばす清涼剤だった。

数年後、ホークスがダイエーに買収されて福岡に去ってから現在の「なんばパークス」の建設が始まるまでの何年か、大阪球場は内外野席やスコアボードを残したままグラウンドが住宅展示場になっていた。
あの異様な光景が忘れられない。スコアボードが墓標のようだった。
ちょうど写真をはじめた最初期に重なっているので、撮ったのが出てくるんじゃないかとネガのファイルをひっくり返してみたら、1枚見つけた。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

ホークスファンにしてみれば拷問のような風景だった。