入居者名・記事名・タグで
検索できます。

3F/長期滞在者&more

黒い蝶

長期滞在者

夜、港に近い工業地帯を自転車走行中、地べたに羽を広げて貼りついていたアオスジアゲハの真上を轢いてしまった。
ライトで視界に入ったときにはもう避けられなかった。
むごいことをしてしまったと、引き返してみたら、蝶形に広がったゴムカスの上に青い紙くずがへばりついていただけだった。

・・・・・・

アオスジアゲハが好きだ。
ジャコウアゲハ等クロアゲハ系も好きだが、なぜかよく見かけるし、しかも死に際によく会うのがアオスジアゲハだ。
羽が折れ、目がカラカラに乾いて陥没してるような瀕死のアオスジアゲハによく遭遇する。死にかけのアオスジアゲハを使って何者かが僕に特殊なメッセージを送っているのか、というくらいに。どなたか知らないけれど、ちょっとわからないので別の方法でお知らせくださらないだろうか。

職場の隣りにある神社の土塀に作られた通用口の扉の際にアオスジアゲハの蛹があって、ドアが開け閉めされる風圧で落ちてしまわないかと毎日毎日心配で見に行き、越冬蛹だったので何ヶ月も蛹のままで、気になって仕方がないからとっとと羽化してくれないものかとヤキモキしていた。
三月になって春めいてきた頃、今まで変化のなかった蛹に少し変化があり、ここ数日で羽化するかもしれない、よくぞこの一冬耐えたものだと楽しみにしていたら、ある朝、あとかたもなく蛹が消えている。
蛹が固定されていた場所に、脱ぎ殻の痕跡でもないかと探したが、まったく何もない。
無事羽化を終えて飛びたち、蛹の痕跡は風で飛んでしまったのだろうと思いたかったが、アオスジアゲハの蛹を飼育している人のブログ等を見ると、僕の見た蛹の段階はまだ羽化に数日かはかかる状態のようだ(直前になるともっと中の成蝶の姿が透けてくる)。
おそらく羽化直前に鳥にでも食われたのだ。
何ヶ月も見ていたので呆然。自然の摂理とはいうものの、その見知らぬ鳥をちょっと呪った。

と、へんな感情移入をしているけれど、蝶(に限らず昆虫)というのは、生態を調べれば調べるほど、つくづく人間とはまったく違う仕組みで生きているのだなぁと。
戸川純の『昆虫軍』(元はハルメンズの曲。作詞・佐伯健三)に「まなこ複眼、脳がない」とあるので、本当に脳がないのかと調べてみたら、小さいながらもないわけではない。しかし脳の役割は他の生き物より小さくて、脳だけでなく腹部や胸部にある神経節と連動して分散情報処理をするらしい。そもそも生きる仕組みが違うのだ。
手塚治虫の『ブッダ』で、どんな動物の心にも入り込める特異能力を持った少年タッタが、「でも昆虫だけは無理だ。やつら心の仕組みが違うんだ」という。脳には入り込めても、体の神経節には入り込めないのだろう。

毒舌で鳴る某写真家が、写真の審査をするとき「昆虫の死骸とか写ってたらそこで見るのやめちゃう(笑)」みたいなことを言ってて、まぁ意味するところは昆虫の死骸みたいな小さな深刻をさも大げさにとりあげて意味ありげに見せる「っぽさ」が嫌い、ということなんだと理解はした。
が、しょっちゅう昆虫の死骸などを見つけては撮ってる僕としては、ちょと心おだやかではない。
別に金村修に認められたいわけではないが(名前言ってるし 笑)。
小さな深刻というならそれまでだが、その小さな深刻は、我々が一生かかって解けない巨大な謎に一直線につながる。どうしてこんなに生きる仕組みが違う生き物が、我々人間と同じに「生きている」のか。そもそも「生きている」とは何なのか、という話に。
そういう小さな深刻を見つけては、目の前の死骸より多少は複雑な我々の生きる仕組みを考える。そりゃ撮るだろう、普通。
撮りますよ僕は。

蝶の話からいろいろ右往左往しますが。
世の中にはいろんな生き物好きがいて、昆虫好きもいる。
でも昆虫マニアは、クワガタ飼って大きくする、みたいな場合もあるけど、蝶好きの人なんかは最初から標本にして収集するのが目的だから、捕まえたらすぐに胸のところをプチっと潰して絶命させるらしい。
う〜ん、ほかの生き物好きと、ちょっと「仕組み」が違うな。
昆虫の生きる仕組みが違うからこそ、の話ではある。

asjagh

カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

正直、昆虫は得意ではない。
けれど、生きていても死んでいても、わたしもつい写真を撮ってしまう。

昆虫そのものは好きではないけれど、昆虫の写真は好きだから。

死んでいたら、当たり前だが動かないから、嬉々として撮る。
好きな部分をそこに見つけたのだから撮る(撮りたい)のであって、それを好きなだけ見ながら撮れるのは(死骸であるがゆえに)少し後ろめたさもあるけれど。

死んでしまえば見えなくなるところがある。

代わりに、生きていたら見えないところが見える。

昆虫の死という「小さな深刻」について、そして彼らと生き物の謎について考えるほど、わたしは昆虫に思い入れはないけれど、生きているうちは動く(可能性のある)ために見られない昆虫の姿形を見られる死骸との出会いは時に幸運の部類だ。

死は生よりもかなしいもの、という扱い方をされる。果たしてそうだろうか。

時に、一切の知識・情報を無視して、ただ目で、目の前のものを捉えるように見られたら、と思う。ことばもままならない幼児のように。生死の概念もない頃のように。

それか、死骸を撮ることは、じっくり見てみたいけど、どこか憚られる何かがある。
そこでもし、撮れば(撮りながらも、写真からも、撮るという行為を通しても)見えるものがあるから、一部の人は死をカメラに収めるのかもしれない。

トップへ戻る トップへ戻る トップへ戻る