写真がはじまった

長期滞在者

僕が写真を始めたきっかけは以前にも書いたことがあるけれど、ペンギンだった。
24年前、南米チリでフンボルトペンギンの生態調査をする研究団体の調査旅行に参加して、ペンギンの営巣地の様子を記録撮影するためにカメラ機材を揃えた。
詳しい話はこちら → 「ゾディアック!」

南米の調査旅行から帰ったあと、僕は当時飲食店バイトかけもちのフリーターだったので、旅行中に使ったフィルム代プラス現像代(自腹)、無理して買った望遠レンズやそもそも高額だった旅費のために、自分の収入に照らして少なくはない額の借金を抱えてしまっていた。これらを返済しなければならなかったので、ずっと続けてきたアルバイト生活に見切りをつけて、そろそろちゃんと正社員職に就こうと考えた。26歳のときだ。
南米に調査旅行に行くほどペンギンが好きなわけだから、まず考えたのは動物園の職員。もしくは今回の旅行で習得した(つもりの)写真の技術を使う仕事。どちらか先に見つかった方に就こうと決めて、結局今も働いている営業写真館で働くことになった。

営業写真館で面接を受けているときに、独学だが写真は3年くらいやってる、とささやかな嘘をついた。
実際は中古の安い一眼レフ(ニコンFEだった)をペンギンのために買って1年ちょっとだったのだが。
当時は専務だった今の社長が、ペンギンの調査旅行に着ていったのと同じ軍用コートを着て面接に現れた僕を面白がって(ただの常識知らずなのに)はずみで入社させてくれたのはいいけれど、入社してみると「3年やってます」という自分のついたささやかな嘘が気になって仕方がなくなり、遅まきながら猛勉強することにした。
実際、当時写真館では集合写真や家族写真を撮るのにまだシノゴ(4×5インチ)の大判カメラを使っていて、フジやマミヤの中判カメラ(6×9や6×7)も使う。特に大判カメラなんてまったくもって未知の世界である。とにかく写真の技法書や事典を片っ端から読みまくり、会社の大判カメラを借りて帰っては操作の練習をしたり、アオリ(ピント面を傾けること)の理屈を勉強したりした。
良い先輩にも恵まれた。卒業アルバムのクラス写真を撮るのにも大判カメラを使うのだが、助手のつもりでついていった学校で、先輩から「今日はお前撮れ」といきなり言われ、うろたえた。
「撮ったことないです」
「本渡したやろ。読んでないんか」
「読みました」
「だったら撮れるはずや」
「失敗したらどうするんですか!」
「職員室で土下座したらええんや! 俺も土下座したる」
こんなスパルタな先輩に叩き込まれて、「仕事」の写真を覚えていった。
もともと適性もあったのだと思う。写真学校で勉強するようなことは早々に実践で覚えた。
何しろ面白かった。遅くまで働き、寝ずに勉強し、少ない休みもすべて写真に費やした。

当時、証明写真も暗室でプリントしていた。シノゴのモノクロフィルムを暗室で半裁したものを使う。密着(印画紙にネガを重ねて同寸のプリントを得ること)で使ったり、引き伸ばし機で伸ばしたり縮小をかけたりする。特にシートフィルムから縮小をかけてプリントした証明写真は、小さいサイズなのにびっくりするくらい精密で美しく仕上がる。銀の粒子が作る小さな宇宙に驚嘆した。
暗室を教えてくれた先輩も厳しい人だったので、家にも中古の引き伸ばし機を買って練習した。

こうしてどんどん仕事以外にもモノクロのプリントというものに惹かれ、夢中になっていった。
モノクロ = カラー写真普及以前の古い技法、というわけではないことがわかり、美術館に収蔵されるような写真はたいていモノクロームなのだと知った(それが褪色しやすいカラー写真を嫌う美術館側の都合である、というのは後で知る話だが)。
仕事ではなく自分が普段持つカメラにもカラーではなくモノクロのネガフィルムを詰めるようになった。安い愛光というブランドのモノクロフィルムを大量に買って、湯水のように使いまくった。コニカのモノクロフィルムも安く買えたのでよく使った。安い給料のほとんどを写真に投入した。狭いアパートがいつも酢酸の匂いで充満していた。

はじめはペンギンのために始めた写真だったが、いつしかどっぷり「写真」そのものに魅入られていた。
図書館に通って、モノクロで撮られた写真集を片っ端から見た。
有名なカルティエ=ブレッソンもブラッサイもエルスケンもラルティーグも見た。

その誰の写真集よりも、この1冊の写真集に、撃ち抜かれたような衝撃を受けた。
『Black, White and Things』という、薄い写真集。

写真家の名前はロバート・フランク

なんだろうこれは。寒風吹きぬけるような、ざらざらした写真たちが並べられていて、見ているうちに薄い紙やすりで心臓をそのままなすられるような痛い不安と寂寥感が襲ってきた。
暗い写真集だった。正直最初は不快だったかもしれない。しかし見ているうちに、これは目を離してはいけない痛さなんだと思えてきた。
その写真集を見る前と後とで、写真に対する考え方がすっかり変わってしまった、という経験なんて、そうそう出会えるものではない。
この『Black, White and Things』と、後に出会うダイアン・アーバス『untitled』深瀬昌久『鴉』くらいだろうか。

吊られる廃馬の写真、続きにある子どもたちに石を投げられる老馬の写真に心が軋んだ。他の写真も、頁を繰れば繰るほど、胸がざわざわ、ざらざら、暗く静かに騒いだ。
写真というのはこんなうすら寒い寂しさを撮ってもいいのか。
そんなことを教えてくれたのがロバート・フランクだった。

その後、洋書店でこの『Black, White and Things』を見つけた。たまたま在庫処分セールだったらしくたったの1900円で手に入った。こんな本を1900円で売っていいのだろうか。僕の写真の見方をひっくり返してしまった本なのに。なんだか恩人が辱められているような気分になったことを思い出す。
のちに彼の代表作『The Americans』や他の写真集もいろいろ買った。写真の歴史を変えたと言われるのは普通この『The Americans』の方だが、当時のアメリカの社会的なことがわかからないと直感的にすぐ良さがわかるという写真集ではないような気がする。
『Black, White and Things』と『The Americans』は重複する写真も多いけれど、少ない枚数で編まれた「濃縮版」とも言える前者の方が、より写真家本人の感情の流れに痛々しく沿っていてピンポイントでこちらの心臓を突いてくるのだ。
最初に見たのがこれ、というインパクトも大きいのだろう。今でもロバート・フランクの写真集の中ではこの『Black, White and Things』が一番好きだ。

rfkiito

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デザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)で開催されている(2017.9.22まで)ロバート・フランク展をみてきた。
近年彼のプリントの価値が高騰しすぎて写真展にかかる高額な保険料のために自由に展示もままならない、という不自由さに本人が業を煮やし、新聞紙の印刷に使う紙に写真を印刷して会期が終わったら破棄するという展示。
俺たちゃ所詮紙屑絵師よ、とニヤリと笑う北斎の顔(by 杉浦日向子)が浮かんだりして痛快。
広大なロール紙を山ほど吊るした展示風景は壮観だった。
写真集が吊り下げられて自由に読めるようになっていたが、以前のものはもちろん知っているけれど、最近出版された知らない写真集もあった。彼の写真集は入手できるものはできるだけ買おうとしていたが、今はロバート・フランク以外にも僕は好きな写真家が何人もいるし、正直、最近出版された写真集まで全部買い続けるほどに情熱は持続していなかったのだ。
でも久しぶりに原点となった人の展示を見て、熾火がぶすぶす熱せられてきた気がする。
写真を始めたばかりの頃に彼に刻まれた影響というのは、他にいろいろな写真家を知った今もやはり深く刻まれて簡単には抜けないみたいだ。

ロバート・フランクは今92歳。
僕が彼の今の年齢になるまで(生きられたとしてだが)なんと42年もある。

僕も92歳まで生きて写真を撮ろうと決めた。

http://ours-magazine.jp/journal/robertfrank/