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3F/長期滞在者&more

踊る人

長期滞在者

もう二十何年も前の話だが、劇団に所属して舞台活動をしていた頃、指の先端から各関節、体の重心の移動・受け渡しというものを全部意識の上に引っ張りあげながら、全身にテンションをかけてとにかくゆっくり動いてみる、というエチュードを、劇団のトレーナーに指示されて身体訓練の一環として行っていた。
いつもは無意識の領域に委ねている身体各部の動きを、全部意識の表層に引きあげてから動くことで、まずは自分の体との対話の道すじを通す。常に今の自分の体の状態を把握しながら動くこと。これは舞台の役者の基礎である。
基礎である、なんて偉そうに言ってるが、もちろん、そんな簡単なことではない。
舞台を観にきてくれた友人に「舞台上にいても動きはカマウチだ」と痛いところを突かれたり。
つまりはカマウチではない人を演じきれていないのである。意識しきれていないから素の動きが出る。歩き方一つにしても意識して変えるのはむずかしいものだ。

できるできないは別として(できていれば今でも舞台に立っているだろう)、その先に何があるのかは、想像ができた。

まず体を意識で満たす。動きの隅々まで意志をみなぎらせる。常に自分の体の状態を知る。その先は、この意志が、体の外に出て行くのだろう。
体の外の空間を知る。
空間の中の体を知る。
体の外に意志が出て行く。
動くたび、まるで幽体離脱のように外からの視点で自分の位置を知れるようにもなるかもしれない。
そうなればその役者の意志が空間に満ちる。満ちた空間にその人が拡張されていく。
そして空間がその人になる。

それを「凄い役者」というに違いない。
(もちろん役者だけの話ではない。ダンサーはもちろん、ある種の武道者もそうなんだろう。)

そこまでわかってたんだけどなぁ。なれなかったなぁ・・・。
わかるとできるの間には深い深い河があるのだ。

・・・・・・

ウェブマガジン『アパートメント』の住人になって、3年半になる。
2ヶ月間の短期入居(「当番ノート」第7期 )のつもりが、いつのまにか長期滞在で腰を据えてしまっている。あつかましいことである。
が、実はこのアパートメントの大家さん(主催者)である朝弘佳央理さんに、僕はまだ会ったことがない。
お家賃持って行っても留守だし(嘘)。
管理人室にいないのも当然で、朝弘さんはフランスを拠点にして活動しているコンテンポラリーダンサーである。

その朝弘さんが日本に一時帰国して国内数ヶ所を舞台公演で廻るというので、先日東京・王子神谷の「シアター・バビロンの流れのほとりにて」での舞台『夜弓』を観に行った。
メール等では随分昔からいろんな話をしてきたけれど、目の前で動く朝弘さんを見るのは初めてだった。

舞台をやっていた頃に想像していた「凄い役者」像が、やはり全然間違いじゃないことがわかった。
言葉が介在しない「ダンス」の方が、演劇よりもさらに空間へ拡張される伝播力を持つのだろうか。
空間は、はじまってほどなく朝弘さんの意志に満たされて、拡張された朝弘さんに覆われて、朝弘さんそのものになった。もちろん観ているぼくら観客もだ。

何だよ、大家さん、すごい人だったんだな。
ちょっとゾクゾクしちゃったよ。

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カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

舞台の上のからだというものと、踊るひとについて。

本文を読んで、わたしもはじめて佳央理さんの踊りを見たときのことを思い返したのでそのことを。



数年前、はじめて舞台で見た佳央理さんの踊りは、とてつもないものであったな、という印象が自分の中に色濃く残っている。

踊っている佳央理さんや他のダンサーを見ながら、客席は暗く手元も見えないのに、湧き上がる印象を書きなぐるようにして、あり合わせのチラシ紙の文字の隙間に書いていった。

知らない感覚が次々に投げ込まれてくるのをただ身体で受け止めるのが精一杯だということが悔しいほどだったからだ。

ただ、文字になっていないような文字をあとから読むことはできないだろうと思いながらも書いたメモは、やっぱりほとんどが読解不能であった。

舞台から伝わるものは次々と打ち上がる花火のようで、一刻前の空がもうどこにもないことに似ているけれど、その1つ1つや、幾つかの重なりをそのままにもっていたいと思ってどうしようもなかった。

そんな風に空間をまるごと司ってしまうようなちからを、舞台上ではぱっと腕を開くだけのことでもみせてしまうひと。我らが大家さん。

その舞台を見た直後は役立たずのメモも一応手元にあったのに、文字にはなんとも起こすことができなかった。

ただ、熱だとか、空気の塊だとか、そういったものの凄さみたいであるのに、それらのように弾け散らないインパクトを胸に植えられてしまうようだとも思える体験だったことを、数年越しで今、文字にする。

今回の「夜弓」は生憎見られなかったのだけど、別の公演にはわたしもお邪魔したいと思っています。

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