ジャコウアゲハとエロティシズム

長期滞在者

武庫川の河原で、ボロボロの羽の、見るからに瀕死のジャコウアゲハが2匹、交尾していた。
下になってるオスは、もう生きてないんじゃないかと思われるほど生命感がなく、実際ずっと観察していても動かない。上になってるメスも瀕死状態だが、じっくり見ているとたまに反応があり、少なくともこちらは死んではいない。

瀕死で交尾。

これはつい
「死にそうになりながらセックスしている」
という人間の言葉に訳してしまいがちである。そういう擬人化欲がブリブリ頭をもたげてくる。
いや、下の蝶は死んでるかもしれないから、ヘタすると屍姦である。屍姦という言葉がお下劣ならば、「死んでも相手を離しませんでした」とでも訳せば涙も出よう。

いや、まぁ冷静になろう。

蝶の交尾は人間の性行為のような情念を伴うものであるか。
エロティシズムとは死にまで至る生の高揚である、という、そこまで高度な情念が昆虫の小さな脳に宿るとは思えない。
彼らは遺伝子を次代に残すというプログラムのみで生きている、いわば単純(だけど精密)な機械のようなものではないのか。そうではなく、多少の情緒のようなものが存在したとしても、少なくともこんな高度な「エロ」という概念は存在しないだろう。
と、ここまで考えて、

いや、何を言ってるのだ俺は。

実際に瀕死でつながっている蝶が目の前におり、情念があろうがなかろうが、交尾ののちに彼らは死ぬのだ。実際に受精によって得た次のステップである産卵という行為に、このメスは耐えられなさそうに思える。子孫を残す可能性がゼロに近いのに交尾を試みる瀕死の蝶というのは、実に危ういことに、過剰に人間語的である。もしかして字義通りのエロティシズムの王道をブッコ抜いているのではないか。

遺伝子伝達の舟、という役割でその生物のとある個体を考えるならば、交尾して卵に新しい遺伝子情報を入れさえすれば、その舟の役割は終わるわけである。オスであれば交尾が終わったら死んでもかまわない。
だがメスにはその卵を産み落とすという最後の仕事が残っている。瀕死でもこのメスは最後の命を振り絞って産卵しようとするだろう。交尾も産卵も命がけなのである。
さっき「死にそうになりながらセックスしている」と訳したくなる、と書いたけれども、実際は
「死にそうになりながら繁殖しようとしている」
のであって、人間みたいに交尾と繁殖が意識上分離している生物のほうが珍しい。そんな妙な生物の使う言葉に、命がけの繁殖行為を翻訳されても、蝶は知ったことではないだろう。

人間どもは死にそうな思いで恋愛したりする。実際恋が破綻すれば死にたくもなる。
だがこれは「生物とは遺伝子受け渡しに命を賭けるものである」という生物全般の大テーマみたいなものから、言葉というプログラムによって巧妙に目的を隠匿され捏造された偽の物語なのだろう。
本当は恋愛に死を賭すとかではなく、生物として「繁殖が済めば死んでもよい」ということを、巧妙に言い換えパズルしているにすぎない。恋愛とはあからさまに「比喩」である。
人間とはなぜにここまで話をややこしくしなければ気がすまないのだろうか。目的が繁殖であることを隠してまでも交尾にまつわるさまざまを潤色してしまう不思議な動物。
この「言葉というプログラム」が精神であり文化でありヒトの生きる舵取りとなっている以上、話のややこしさは宿命であるのだけれど。

「死んでもいい恋愛」が言葉というプログラムの作った巧妙な偽物語であるならば、ジャコウアゲハの「死んでもいい交尾」は生理活性物質(フェロモン)に誘引された本能の物語である。
「エロティシズムとは死にまで至る生の高揚」とは至言ではあるけれども、蝶たちは、というか人間以外の生物は、言われなくても死に至るまで生を高揚させている。
その、なんというか、そうじゃないんだとわかってはいてもだ。ほのかに痛む敗北感のようなもの。これは気のせいなのだろうか。

SDIM7099
(ジャコウアゲハ。漢字で書いたら麝香揚羽。名前がすでにエロス。)