森山風歩さんを撮る

長期滞在者

以前、先鋭的なポートレート写真家である大先輩K氏に、ぶしつけながら「ポートレートってそもそも何でしょう」と質問してみたら、K氏は
「撮られたいと思っている人を、撮りたいと思っている人が撮ること」
とシンプルに答えてくれた。シンプルすぎて奥深すぎる。
人が人を写せば何らかの人物写真は成立する。誰が誰を撮っても写真は残るが、「誰に撮られたい」と「誰を撮りたい」の「誰」と「誰」が一致すればそれは最強の引力を生むわけである。
ということをツイッターに書いたらT浦氏が
「その回答に同意なんですが、坂口安吾の仕事場での写真も味わい深くて好きです。」
写真家林忠彦が撮った、妻さえ入れたことがないという書き損じとゴミで床の見えなくなった仕事部屋で、カメラを睨みつけるように座る坂口安吾の写真のことである。少なくとも撮られた安吾は「撮られたい」とは思ってなかっただろう。なのにあれは結果として最高のポートレートになっている。林忠彦の「撮りたい」力に、「撮られたい」ではなく、結界のような凝視で応えた安吾。
結局は被写体から撮影者に返る力の強さの問題なのかもしれない。撮影者の撮りたい力と被写体から跳ね返る何らかの力が拮抗するときに、そのポートレートに脈動が走る。

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もう七年前の話になるが、書店の新刊コーナーで、潤んだ目にただならぬ力をまとった若い女性のポートレートが表紙の本に出会った。その女性のことを僕は知らなかったが、それなのにその表紙を撮ったのは荒木経惟だとなぜかすぐにわかった。誰かわからないその女性と荒木経惟の緊張の線が激しく衝突する凄いポートレート。中身も見ずにジャケ買いしてしまった。

森山風歩著『風歩』(講談社)

それは進行性筋ジストロフィーと戦う女性の自叙伝で、表紙の人物がその森山風歩さん本人だった。
相当凄惨な家庭に育った人で、金はあっても金以外のものがまったくない両親に虐げられて育ち、小学校三年生で自覚症状が出始めたのに、中学生になるまで病気であることを親にも学校にも認めてもらえず、車椅子も与えられず、ただやる気のない女の子とみなされて家でも学校でも虐げられ続けた。13歳で進行性筋ジストロフィーと正式に診断されたときには「病気だったことにホッとした」という。

「生きると死ぬはイコールだわ。
だから、死ぬってことは生きるってことだわ・・・と思った。
だから、あたしは、人として生きることはどういうことか、人間というものは何なのかを少しでも掴んで生きたい(死にたい)と思った」

こんな文章に、ざくざくと心臓を刻まれる思いがした。
養護学校で人生ではじめて「まともな大人」藤田先生と出会う話。大学に進学するも学費滞納で退学処分、作家目指して上京、荒木経惟との交流、等々・・・いや、僕が下手に紹介するよりもぜひ本を読んでほしい(現在紙本は出版社在庫切れだが、kindle版はAmazon等で入手可能)。

その後、NHK製作で短いドラマになったものをyoutubeで見たり、荒木経惟の写真集に登場しているのを見たり(『6×7反撃』『空』)、リリー・フランキーと雑誌でコラボしたりしてるのを見つけたり、僕は勝手に風歩さんへ敬愛の念をつのらせていたのだが、何年か前にFacebookで彼女を見つけて友人申請をしたら了承してくれて、時々コメントを交わすようになった。

最近、僕が以前に撮ったモノクロの人物写真(「初対面の人を撮る」シリーズで撮った桃井くるみさんの写真)がすごく好きです、と風歩さんが言ってくれたので、嬉しくなって「風歩さんを撮りたいです」と申し込んでみると、思いがけず風歩さんから「私も撮られたいです」と夢のような返事が。
撮られたい人を撮りたい人が撮る。まさにK氏の言うポートレートの定義。
アラーキーとリリー・フランキーの次がカマウチでいいのか、とか考えない。僕だってファン歴は長い。何回も本を読んだから勝手に旧友のような妄想を抱いている。妄想上の資格がある(危ない危ない)。

つい先だっての6月3日。東京のご自宅におじゃまして撮影させてもらった。
「撮りたい」と「撮られたい」の均衡・拮抗に、初対面の緊張がないまぜになった張力の高い時間。1時間半という時間があっという間に過ぎた。
写真やってて良かったなぁ、と心底思えた。

いやほんと。写真やってて良かったな。
しつこいけど、もう一回言わせてください。
写真やってて良かったです、風歩さん。

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