暁の人類学(4): どこまでも柔らかい空間について

長期滞在者

自分がどこにいるのか、わからなくなる。夕方の体育館で目覚めたとき、異国の街で酩酊してタクシーに運ばれているとき、昼下がりに談笑した友人たちが部屋から去ったとき、目の前を飛びまわる虫を叩くでもなく眺めているとき。そんな感覚に襲われることがあります。

自分と外界を隔てる境界は曖昧として、色や音や風や、誰かの嫉妬や自負や不安が、皮膚のすみずみから神経系をつたって全身にじわじわ染みこんでいく。推定37兆2000億個と言われる人体を構成する細胞のそれぞれが、周囲に存在する膨大な要素といかに付きあっていけばよいのか、途方に暮れて躊躇って、あちこちで小さな悲鳴をあげているような。

もちろん、こうした感覚は長く続くものではありません。37兆のせめぎあいは次第に1つの私へと統合され、皮膚の境界はくっきりとした輪郭を形づくり、近い場所、遠い場所、さらに遠い場所がイメージされていきます。私を中心として重なる複数の同心円。自分の住む家、家をとりまく住み慣れた街、通学・通勤する学校や会社までの道のり。遠近法で描かれた絵画のような空間の、手前から奥に進み、奥から手前に戻ってくる。無数の往復を繰り返すなかで、それぞれの場所が私になじんでいきます。

毎日利用する駅の階段、乗り換える駅のトイレ、会社の机、喫茶店のテーブル、同僚と通う居酒屋のメニュー表。日々の喜びや不安や倦怠を吸いこんで、それらはしっかりした意味を持つようになります。親密で鈍重な生活空間。それに飽いたとき、私たちは呟くようになります、「どっか遠くにいきたいなぁ」と。

でも、私たちは薄々感づいているようにも思います。私を中心とする同心円状の生活空間というものは、どこか作為的なフィクションのようなものであるということに。

例えば、長い海外生活から帰りついた住処に懐かしさとよそよそしさを感じるとき、異なる同心円を生きる友人が自分の部屋を訪れて嬉しさの傍らに少しの緊張を覚えるとき、見慣れた街に突如として新しい風景が現れてそれが元からそこにあったと気づいたとき、安定した堅い生活空間は、流動的で柔らかいものへと変わっていきます。

親密で鈍重な生活空間。そこに誰が、何が現れるのか、実際のところ私たちにはわかりません。でも、私を構成する37兆のせめぎあいは常に身構えています。外界が生みだす見知ったパターンが狂い、新たな構成要素、新たな関係性を伴って侵入してくることに。生じているのは恐怖なのか歓喜なのか。おそらくは、その両方ではないでしょうか。

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