暁の人類学(12): どうとでもありえている世界のために

長期滞在者

何のために書くのでしょうか?

店じまいをするにあたって、私はこれまでの連載を読み返しています。自分が書いたようで他人が書いたような、挑発的であるようで後ろ向きな、まとまっているようで雑然とした、おさまりの悪い文章たちについて考えています。

「何のために書くのか?」という問いは、いくぶん不適切かもしれません。それではあたかも、私が自らの意思において世界に何かを示すために書いているようではないか。そんなわけはないですね。私たちは常に状況のなかで言葉を発しています。その身振りは能動的であると同時に受動的で、自らの経験や思考は常に自己の外部にある状況によって規定されてもいる。それでも私は書いています。受動的かつ能動的に、自らを取り囲む状況に規定されながら、限られた知識と経験しか持たないにも関わらず、書き連ねる一語一語がその限界を少しだけ突破し、少しだけ限界へと舞い戻っていく運動を感じながら。

何のために書くのでしょうか?

かつて私の先輩の一人は言いました。「どうとでもありうる世界のために、だ」。かなり好きな言葉です。でも、なんていうか、ちょっと格好よすぎる気がします。「いま・ここ」にある世界の外側に、そうではない別の何かが――潜在的にではあれ――存在する。それを喚起し、生成と改変を促していく。私もそのような身振りが嫌いなわけではありません。でも、なんていうか、少しおさまりが悪いですね。雑然としたこの連載と同じように、私の能動的で受動的な文章は、「いま・ここ」の外側にストレートに走っていくものではありません。

むしろ、「いま・ここ」のうちに既に世界は「どうとでもありえている」のではないか。そうした発想に、私は親しみがあります。この世界が安定し退屈で秩序だっているという感覚のすぐ隣に、不安定で壊滅的で創造的な状況がすでに始まっていると常に感じています。そして両者の狭間に言葉を添わせていく、添わせるなかで言葉が変わっていく。そのなかで、私自身もまた、現にどうとでもありえています。社会的属性や個人的関係やまだ見ぬ読者のイメージとはまた別の場所、薄暗いどこかで、私はぐちゃぐちゃと不定形のまま思考し、関係し、言葉を書き連ねています。

大変に辛く、とても楽しいです。私はいかなる文章を書いたこともなく、いかなる文章を他者に伝えたこともありません。あなたなんか知りませんし、私の辛さと楽しさはあなたにまるっと理解されることはありません。そう感じています。とはいえ、あなたも大変に辛く、楽しいということ、それが私の辛さと楽しさとは無関係でいながら関係していること、あなたもまた現にどうとでもありえていることを感じてもいます。

私にとっての暗がりはあなたにとっての暗がりと、どこかで部分的につながっている。そのような細々とした回路をあてにして、私はこの連載を書き連ねてきました。私のなかにある何かがあなたに伝わっているとは思いません。私たちがすでに部分的につながっているのであれば、私の安定はあなたの動揺に、あなたの歓喜は私の恐怖に、私の到着点はあなたの出発点に変換されていくと考えています。

さて、店じまいです。いずれまたどこかでお会いするかもしれません。その時は、きっと不安定でプルプルして快活に、私はあなたを見つめることになるでしょう。あまり強く殴らないでいただけるとありがたいなぁ、そう思います。

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<終>