入居者名・記事名・タグで
検索できます。

3F/長期滞在者&more

丸腰の日

長期滞在者

珍しく丸腰だった日。
意図してのことではなく、EOSとベッサ、どっちにしようか朝ずいぶん悩んで、よし、今日はEOS、とベッサを机に置き、そのまま馬鹿なことにEOSも玄関に置いてきてしまったという(嗚呼)。

カメラを忘れて家を出たら、その日は一日パンツを履き忘れているような嫌な感じがする、と誰かが言ってた。
そのとおりである。落ち着かないことこの上ない。

しかもこの、丸腰の時に限って、目につくもの目につくもの魅力的に見えるの法則、なんとかならないものか。

暗がりで自販機の灯りが照らす地面の真ん中にじっと端座している憎々しい顔した猫だとか。
あの猫、絶対に写真の神様が僕に「あほ」と言うために派遣されたんだと思う。写真の神様は時に過剰に意地悪である。
外壁工事中でシートに覆われたマンションに、絶妙に街灯が射して不気味にのっぺらぼうの表面を輝かしているところとか。明日同じ時刻にそこに行ったとしても、きっと神様が意地悪をして外壁工事が終わってたりするんだきっとそうだ絶対そうだそうに決まってるわかってるぜこん畜生めのこんべらばーの長久命の長介。

とそれらしく書いてみたものの、この「丸腰の時に限って、目につくもの目につくもの魅力的に見えるの法則」の理由は、実際のところすぐに説明できる。

普段はカメラを持っているから、そういう場面に出くわしたらシャッターボタンを押す。写真として捕獲してしまったら、次の作業(セレクトやプリント等)をするまで「それ」に対する思考は中断する。
意味はさておきとりあえず捕まえておく、というのが路上の写真というものである。自販機の灯りに照らされる憎々しい顔の猫、について延々と考えていたら次に行けない。撮ったらあとはいったん記憶を捨てる。

ところがカメラを持っていないと、ずっと「さっき見た憎々しい猫」のことを忘れられないのである。いったん忘れる、という処置が出来ない。忘れたら消えてしまうし。さりとて脳内を瞬時にスキャンしてRAWデータに落とす技術はまだ開発の端緒にもついていない(はずだ)。

なので、カメラを持たないで歩いた日に見た風景というのは後を引くのである。そしてそれはとってもとっても、精神衛生上よろしくないのである。

写真を撮らない人というのは、こうしたこまごました出来事との遭遇の記憶を、どうやって処理してるのだろうか。
最近、携帯電話が進化してほぼカメラ化して誰も彼もピロリリン♪ と写真を撮るようになった。気になればとりあえず撮る、という習慣も以前よりは世の中に根付いてきたかもしれない(道の傍にかがみ込んでカマキリの轢死体を接写していても、昔ほど変人扱いされない気がするのはありがたい)。
しかしスマートフォンが普及する前、世の中には写真を撮る人と写真を撮らない人にわかれていた。撮る人としての生活が長くなると、撮らない人だった時代の出来事の処理の仕方を思い出せない。
別に写真を撮らなくても普通に生きてこれた二十数年間というのがあったんだけどな、僕にも。

・・・・・・

ということで、スマートフォンである。
とうとう、意地で持ち続けていたガラケーが経年劣化の度が過ぎて、次々とボタンが剥落、何のキーかよくわからなくなった。そんなわけで泣く泣くスマートフォンを導入したのである。
目つきの悪い猫が宣伝している、あの格安スマホ会社のものだ。
これで丸腰を家を出てしまっても、脇差くらいの役目を果たせるかもしれない。小刀くらいか。

まぁ爪切りくらいですかね(竹光とは言うまい)。
隔靴掻痒。恐竜の痛覚。シャッターのタイムラグ遅すぎて、記録する前に何撮ってたか忘れてしまうわ(嘘)。
奮発してiPhoneにすればましなのか? 奮発しないけど。

パンツ履き忘れてもカメラ忘れてはいけない。自戒。

5wn

カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

丸腰の日、だけでなく「手持ちのフイルム残数が不安なくらい少ないのを意識した時」にも似たようなことは起こり、「ファインダー内で確認したにもかかわらず押さえられなかった像」も、ものすごくあとをひく。
ひきませんか。

(予備フイルムを忘れた)「こんな日に限って、なんかすごく出会っちゃったらどうしよう」と、ソワソワしていると、写真の神様に目敏く気付かれてしまって、いけずされることがある。めっちゃ出会う。

少女漫画で言うなら、大きなニキビがほっぺの真ん中にできちゃってる日に限って素敵な先輩が本を抱えている主人公のためにドアを開けてくれたり、気になる男子に会っちゃったりする感じ。
いけずだ。しかも、その後その彼とどこかでいい感じに再会できるみたいなエピソードはついてこない。即その時がバッドエンド。無残である。

なにかしらの理由で(機械の不具合的な理由でシャッターが下りなかったとか、フイルムの巻き忘れだとか、一瞬躊躇ったとか)「撮れたはずなのに撮れなかった」なんていう時も、特にファインダーを通して見てしまったものというのも、すんでのところで取り逃がした悔しさも相まってひどくひどくあとをひく。

「この甲斐性なし、ヘタレ!」と、一瞬躊躇ったが故に、据え膳食わなかった場合の罵声やら嘲笑はものすごく腹の底にひびく。

写真の神様というのは、他の神様に比べて、なぜか試練をたくさん用意してくださる気がするし、気を抜いたら全力で足元をすくいにいらっしゃるし、なんというか、ものすごく「わたしはいますよ」と、存在をアピールなさる・・・気がする。

「写真をはじめたころには見えなかった神様が、今はとっても身近に感じられる。そういった意味で・・・」という人は少なくないはずだ。こればっかりは絶対に。

*

少し真面目にレビューに戻ると、写真を撮らないという場合は、言語的に置き換えてその対象物を判断し、その判断によって出口より出るような脳内処理するのではないだろうか。と思った。

そして写真を撮るものの場合は、撮ることによって思考の入り口にはいる(はいりたい)のだと思う。
というか、カメラを持って街をウロウロしてしまう人間は、いつも”入り口”を探してそうしている。

「どこかへんてこな街路樹」というのが前者のとりあえずの解として、出口なのだとすれば、「なんだこれは?」と足を止め、「どこかへんだ」「どこがへんなんだ」「これは何だ」と分け入ろうとするのが入り口を探してしまう撮る者の習性であり、大きくここに関与しているんじゃなかろうか。

何にしても、カメラを持たない丸腰の日の精神衛生は、確かによろしくない。
最後の一文を肝に銘じよう、写真の神様にはいつだって微笑まれていたいから。

トップへ戻る トップへ戻る トップへ戻る