ソシュール・サイクリング

長期滞在者

一昨年から五十肩に苦しみ、少し遅れて老眼が始まった。46歳、若いつもりでも体は年を食う。最近、自転車での通勤途中でよく目に虫が突入して来て困るが、これもマバタキの反射神経が鈍ってきているせいだろう。
今日も帰途の夜道で左目に虫が入った。けっこう大きいようで尋常ではない痛さである。自販機でミネラルウォーターを買い、じゃぶじゃぶ目を洗ったが痛みがとれない。まだ虫の破片が眼球とマブタの間に残っているのか。

きんきんに冷えたミネラルウォーターで目を洗ったせいか、痛いのにかえって涙が出にくくなった。内側から涙で洗わないと異物は除去されないだろうから、無理にでも涙を出してやろうと左手でマブタをまくり上げ、眼球を露出させながら自転車を漕いだ(ただでさえ異物混入で困っている左目にさらに異物混入のチャンスを与えてどうする、と冷静になった今は思うのだが、そのときは痛くて理性が飛んでいたのかもしれない)。

そこで僕は不思議なことを発見してしまったのである。

左のマブタをめくると、当然左目に圧力がかかって視界がぼやけ、反射的に右目は閉じる。明瞭な視界を失う。良い子は決して真似をしてはいけないが、僕はそういう状態で自転車を漕いでいたのである。

そこで、妙なことが起こった。自転車を漕ぎながらどこにも焦点が合わなくなった次の瞬間、今まで等速で漕いでいたペダルが、ぐん、と急に負荷を増したのである。

あれ? と思って左手をマブタから離し、右目も開けて両眼視に復したら、ペダルの負荷は元の状態に戻った。今のはなんだろう?
危ないとは思いつつ、もう一度実験してみた。車通りのない道に入ってから、もう一度左マブタをまくって右目をつぶり、自転車を漕ぎ続けてみた。

ぐん!
やはり足にかかる負荷。ペダルが急に重くなる。何度実験しても同じだ。
平坦な道を走っているので、当然ペダルの重さはずっと同じはずである。視界がぼやけることとペダルが重くなることに、関係があるのだろうか。
さらなる実験をしてみる(しつこいけど真似をしないように)。

今度は両目をつぶって自転車を漕いでみた。しかし、さっきのような負荷はかからない。

左マブタをめくって視界をぼやかすと負荷がかかるが、両目をつぶってもかからない。謎は増す。

[メモ]

1)両眼視で自転車を漕ぐ (負荷の基準)

2)片目のマブタをまくり上げて(もう片方の目は自動的に閉じて)漕ぐ → 負荷が増す

3)両目をつぶって漕ぐ → 負荷は変わらない

考えられるのは、こういうことである。

自転車を漕ぐペダルの負荷は当然同じはずで、なのに急に重く「感じる」。これは逆に、通常眼の焦点が合っている時には、ペダルの負荷が脳には減算されて伝わっているのではないか。

自転車を漕ぐというのは脚だけの働きではなく、体幹やら腕やら、体のあちこちを動かしバランスをとりながら行う運動だが、その各所に加わる負荷をいちいち意識しながら自転車を漕ぐわけではない。長時間漕いで背中が痛くなってきてはじめて「あ、自転車ってけっこう背中の筋肉も使うのか」と気づくくらいだ。意識を向ければ働いていることがわかるけれども、普段は無自覚なはずである。

ペダルを漕ぐ脚の動きは他の部位に比べれば一番自覚的な運動だが、筋トレでもあるまいし、筋肉の動きのことばかりを考えて自転車を漕いでいるわけがない。たとえば今日の帰り道は僕は「ふちがみとふなとのライブアルバム買ったけどまだ聴いてないな。時間かけてじっくり聴きたいな。いつ聴こか?」みたいなことを考えつつ、武庫之荘越えて二つのルートがあるうち、今日はどっちの道で帰ろうか、とか、その先の信号が今赤に変わったぞ、とか、今日は月がでかくて赤い、でもあれって錯視なんだよね、とか、いろんなことを考えながら自転車を漕いでいる。自転車を漕ぐ脚の筋肉にはほとんど意識を送っていない。意識して加速するとか、交差点で減速するとか、そういうときにしか意識は向かない。
意識せずとも脚は動き、一定の負荷が脚に加わり続け、自転車は走る。半ば慣性的に動作する回路へは脳はいちいち注力しないようだ。脳だって忙しいのである。

実際、脳は僕らが思っている以上に忙しい。自覚的に知覚していること以外にも、体中の神経という神経、目、鼻、耳、皮膚、ありとあらゆる場所から入力された情報を、大半は無意識的に演算処理している。

中でもとりわけ忙しいのが視覚情報の処理なんだと思う。

人は視覚から得た情報を言語を介して認識する。信号が赤に変わった、という映像を目を通して脳がキャッチすると、その映像を言語化して記憶の棚に並べる。人は言語によってしか世界を認識できない。言語化すること、それがすなわち認識するということだ。「花」という言葉を知らない人は、目の前にあるその物体が花であることを理解できない。
前にソシュールのアナグラム論のことを読んでいて(と書くとかっこいいが、残念ながら原著ではなく、それを紹介した内田樹の本で)、人が眼前の事象を見、その事象を言語化して認識の棚に並べるとき、実はその認識された事象よりもはるかに多くの情報を一瞬でスキャンするように取り込んでいて、その膨大な視覚データを認識の材料にし、使われなかった膨大なスキャンデータは言語化されずに消えていく、ということを知った。一つの事象を言語化して認識するために、その裏では常に膨大な情報が集められては流れて捨てられていくのである。

もしかして、さっきマブタをまくって視界をボヤかした時、その「認識直前のデータスキャン」を遮断することになったのではないだろうか、と思い至った。

脳の活動の大きな部分を占める言語化以前データの処理、そこに大きな空白を生じたのだ。脳の作用に「空き容量」が出現したのである。なので、それまでは意識の上に100%計上していなかった「脚の筋肉の負荷」という情報が、一気に脳に流れ込んだのではないか。

ちょっと待て、さっき自分で「両目をつぶって自転車を漕ぐ」という対照実験をしてるじゃないか。それはどうなる?

両目をつぶれば視界は完全に遮断される。視覚情報がなくなる。その状態では、脚の負荷は増えなかった。僕がさっき言ったことに反する結果である。

それは素人考えなのだが、こういうことじゃないかと思う。

視覚を突然ブロックすると、脳は他の入力器官、特に聴覚から情報で補おうとする。脳の中では主要入力器官の転換に大忙しになる。

以前立花隆の脳死関連の本で、「幽体離脱」を科学的に説明する文章を読んだことを思い出す。
視覚から入るべき情報が遮断されて聴覚からの信号しかなくなった場合、今までの認識回路の代替、という現象が稀に起こる。視覚情報を処理する部位で聴覚情報を処理してしまうのだ。つまり、耳からの情報が視覚情報として誤用される。なので瀕死の病人が視覚を失ったあと、わずかに得られた聴覚情報から視覚を捏造してしまうというのだ。それが「幽体離脱」の体験なのだと(幽体離脱は病臥している自分の体を外から見ていた、という体験がほとんどだが、これは聴覚情報が作り上げた擬似視覚である、という話)。

この立花隆の文章が本当なのかトンデモ学説なのかはさておき、ここまで大げさな話ではなくても、視覚をシャットアウトすれば主要情報入手先を聴覚に急遽変更するのは当然に思えるし、そのスイッチ作業、聴覚からより多くの情報を得ようと脳がフル回転することは想像に難くない。つまり、目をつぶってしまうと、脳に空き容量はできないのである。

しかし視界をぼやかす、というのは、視覚を放棄せずに「認識直前スキャン」だけを中止する行為なのではないか。ぼやけて見えているので聴覚への入力ソース変換は起こらない。しかし入力される情報が圧倒的に減少する。ここで脳内の処理能力に余剰が生じるのである。ルーティンで行なわれいちいち脳に上がってきていなかった「自転車を漕ぐ」という負荷情報が、その脳の空きスペースに流入してあらためて知覚される。そういうことなのではないか。

僕は当然シロートなので、当てずっぽうな推論である。他にもたとえば、視覚の半分を奪ったので左右のバランスを司る何かに支障をきたして脳の処理配分が変わったのかも、とか、いろんな可能性があるかもしれない。

まぁ、ここまでの話は、ここまで長く書いておいて今さら何だけれども、話半分に聞いていただいていい。ど素人が直感だけで書いている話である。

視界をぼやかすと足の負荷が増す現象については、路上の自転車は危ないのでもっと安全なもの、たとえばルームランナーとかダイエット用ペダルマシンみたいなものを使いながら、どなたか片目のマブタをまくり上げて実験してみてもらえませんか? 

・・・・・・

さて長い話の枕だったけれど、今日はちょっとこの「言語化」(認識)のプロセスと写真についての話を、少し考えてみたい。
え、・・・今から本題ですか?
長すぎて最後まで読んでもらえなさそうだから、本題はサッといきます。
もう読むのしんどいですって? 
じゃ次号に続きます(笑)。

gogle2
(虫に懲りてゴーグルを購入。もう大丈夫!)