君が自分の胸に振り下ろし続けた刃の痛みや苦しみは君を大切に思っている人たちにも同じように向けられていたことを忘れないで

長期滞在者

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十数年前、最初に脳腫瘍が見つかったのは自覚症状が出たわけでもなく本当に偶然だった。

このことは本題ではないからさっくりとお話しすると、あるお天気のよい日、都内某公園のベンチで横になり日向ぼっこ兼昼寝をしていた私は熟睡しすぎて本気の寝返りを打ちベンチから落ちてしまい、しこたま左頭部を石畳に強打してしまったため顔がお岩さんのように腫れあがり病院に向かうことになった。

「あー、こめかみにヒビ入ってるねー、これはほっとけば治るよ。ところで脳の真ん中に腫瘍があるみたいですね」と突拍子もなくあっさり告知され発覚。あれよあれよという間に検査入院、手術となった。

その時に母に言われた言葉がある。

「私がうまく産んであげられなかったから」
びっくりした。一体何を言ったのだろうかと耳を疑った。

私の病気は遺伝性でも生活習慣のせいでもなく、もちろん私と母が一心同体だとかそんな不思議な話もない。偶然か運命としか言いようのない私個人の身体のことになぜ母は自分のせいだと考えるのだろうか。家族として親として、娘が病気になったことを悲しんだり心配したりするのはわかるのだけれど「自分のせいだ」と母がなぜそんな風に自分を責めてしまうのか私は全く理解ができなかった。

逆によりによってこんな病気に罹り迷惑をかけることになり、更には母をなぜか追い込んでしまっている自分がどうしようもなく申し訳なく、そんな風に言わせた自分が悔しく情けなくて「私がこの病気で苦しさを訴えたりつらい顔をしたら母はまた自分のせいだと思うのだ。それこそ私のせいだ。嫌だ。」と短絡的に考えてしまい、心停止のリスクがある検査に「来ないでいいから」と立合いを激しく拒否して父にこっぴどく叱られて病院屋上の影でひとりで大泣きしたり、手術日当日も緊張に強張った顔をとにかく見られたくなくて手術室に入るまでへらへらしたりして呆れられたりした。
二回目の手術の時は山梨から上京してくる両親の車が渋滞に巻き込まれて開始時間に間に合わなくなってしまったが、私はほっとしたのだった。

その頃のことを考えると、私の考えはとても浅はかで母の想いを全く汲み取れていなかったのだなと思う。
今もまだ、家族とは自分の病気について話すことや伝えるのはとても苦手なのだけれど。

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手術前日、私と両親は主治医から今回の手術は過去のものとはまったく次元が違いかなり難易度も高いものであることや、後遺症の発現の可能性も大いにありえるということを事細かに説明を受けた。三度目ともなれば手術直前の説明というのはリスクについての説明が主で、かなりシビアな内容になることは知っていたけれど、まるで天気予報を読み上げるように手厳しい言葉を流暢にぽんぽん投げてくる主治医に正直家族皆少し圧倒されていた。
空気が沈殿しきった部屋を出てからひと息つついて、廊下で「あの先生、ずいぶん脅かさせるなあ」「お母さん、泣いちゃうかと思ったよー」なんて先生の話はあたかも予想通りで大袈裟であったかのように父と私は笑った。笑い飛ばすことによってお互い強がっていたのだと思う。母は何も言えなくなっていてただ頷くばかりだった。

十時間超の手術が終わりICUに移されて少しすると両親が面会に来た。
疲弊しきってぐったりしていた私に先生が「ご両親に元気だってカッコいい所みせてやろう」と声を掛けてくれたので「そうだった、順調に回復した前の時の手術と変わらないところを見せないと」と余力でもって気合を入れたところ、とんだ逆効果で恐ろしい吐き気に襲われてしまい両親の声を聞くどころか獲れたてのエビのように勢いよく嘔吐き続けるという大失態を犯し、空回りした気合に心から後悔すると同時に、その時の私は自分が先生の言葉に乗ったというのに「別に手術直後なのにカッコつける必要なんてないじゃないか」と勝手ながら先生を少し恨んだ。

入院中両親は大体週に一度お見舞いに来てくれていた。
山梨から車で二時間弱かけてやって来ても父はいつも十五分ほどで帰りたがった。病院の駐車場にはとっくに着いているというのにやれ本屋に行くのだ東急ハンズに行くのだとなかなか病室にやって来ない。私が病院のベットで頭を包帯ぐるぐる巻きにして管だらけになっているのを見るのが嫌なのだろうと笑いながら母が言っていた(余談になるけれど病院が苦手な男性って結構多い気がする)。

そして母はといえば手術翌日にかつサンドを持ってきた。ICUで朦朧としているのにまだ食べられる訳がない。何かしたいのに何をすればいいかわからなくて、コーヒーショップに寄った時に目に付いた食べ物を食べることが好きな私にとりあえず買ってしまったという気負いし過ぎた心遣いの結果らしく「食べられないとは思ったのだけれど…」とばつが悪そうにしていた。
そういえば一回目の手術直後も母はエビたまごサンドを買ってきて全く同じやりとりをしたのだった、そのことも思い出したかもしれない。

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最大の後遺症として私が苦しんだのは世界が何重にも重なって見え視界が歪み、それに耳鳴りと頭痛が追い討ちを掛けて平衡感覚を失い自力で立ち上がること歩くことが出来なくなってしまったことだった。
リハビリを開始しても、術後一般的に眼の後遺症が消失するとされる期間を過ぎても回復する様子がなく、主治医にもこれだけの期間が経っていても改善しないとなるともういつ治るのか分からないと言われ、一生これが続くのだろうか、自分の人生は、生活はどうなるのだろうと不安で怖くて仕方がなかった。この頃の心理変遷は以前書かせて頂いた。(

実は長引いてもせいぜいひと月半ほどで退院できるだろうと私は勝手にたかをくくっていた。
でも入院してあっという間に2ヶ月が過ぎ、退院延長が繰り返され退院どころか転院が決まり日常が次第に狂い始めた。

その間も父からは「大丈夫か」とか「具合はどうか」「リハビリは進んでいるのか」といった言葉は聞かなかった。
代わりに「何か見えないものが見えるようになっていないのか」だとか「気合だ、気合で歩け」とかそんなことをまるでいつも親父ギャクを披露する時の半笑いを浮かべたドヤ顔で私に言ってきたり、東急ハンズで買った戦利品について楽しそうに話してきた。
「気持ちで歩けるんだったらとっくに飛び跳ねてるよー」と私も笑って答えて、父の買ってきたスプレー式醤油瓶や炭酸水製造器について軽口を叩いた。そういう言葉を投げられる方が私は気が楽なのだということも、親から病を気遣われる言葉に私が正直に答えるわけがないことも父は分かっていた。母は「言っていいことと悪いことがある」とたまに度を越えてしまう父を睨んでいたけれど。
遅緩でぎくしゃくとしか動けない自分の姿を見せることはとても出来ず、ふたりが来るときはいつもベットの上にいた。そのことについても父は様子を伺ってはこなかったけれど、きっと娘はよくなるはずだという私の底力を信じてくれていると感じた。当然最悪の場合のことも考えてはいたかもしれない、でも、もしああなってしまったらという類の話は直接私とは一切しなかった。

結局後遺症は回復しないまま転院の日が来た。

新しい病院に向かう時、どうしてこんな事になっているんだろう、なぜ母が私の車椅子を押しているんだろうと泣きそうだった。私がもっと子供だったら病気で母に面倒をみてもらうことにここまでの違和感も感じなかったのかもしれない。でも「これじゃあ逆じゃないか」と情けなくてしようがなかった。
いつか母がもっとおばあちゃんになった時に私が車椅子を押すことがあるかもしれない、それが自然なことだと考えていたから、すでに60歳半ばにさしかかり、ある程度年を重ねた母に車椅子を押させるのがどうしようもなく不甲斐なかった。「ごめんなさい」と言うのも違うと思ったし世間話をする余裕もなかった、なのに次々と考えが巡って言葉が詰まってしまいずっと黙っていた。母も無言だった。あの時母はどんな思いで私の車椅子を押していたのだろう。

それからさらに約2ヶ月リハビリを重ねたことによって幸いにして眼の後遺症に関しては消失し、やっと私は退院することができた。

あらためてあの頃のことを思い返すと、父も母も、もちろん私も皆おそろしく不器用すぎて笑ってしまう。

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療養期間を終えて徐々に社会復帰をして、よく考えることがある。

病気が、ときには患者自らでもって自分の胸に振り下ろし続ける刃の痛みや苦しみは、その人を大切に思っている人達にも同じように向けられているのだということ。

病気に罹って、その症状に対して身体的に痛みを感じたり苦しむのはもちろん本人だけれど、精神的に苦しむのは本人だけではなくて、その人を大切に思う人たちも同じように傷つき、苦しんでいる。
本人のその痛みや不安、憤りを分かつことが出来れば、すべて理解し共有することが出来ればまだどれほど楽だろう、出来ないからこその悩みや苦しみ、迷い。分かち合えないもどかしさが「自分に何か原因があったのではないか」と自身へその痛みの矛先を向けてしまったり、無力感に苛まれたりしてしまう。

尽きない「なぜ」に、繰りかえす「どうして」。

たくさんのことを抱え込みながら障碍・病への受容までの道を(一般的にショック期/否認期/怒り・恨み期/悲観・抗鬱期/解決への努力期/受容期などがある)を本人のうしろで寄り添い、なるべく本人に気づかれないようにと心積もりしながら悩んだり苦しんだりして、同じように不安を乗り越えて一緒に歩もうとしてくれる。

私になにができるわけでもないのだけれど、そうやって支えてくれる人が周りにいたこと、今もいること。
この瞬間もこれからも、大切な人と一緒に悲しみや喜びに包まれながら、そのまわりをぐるぐるに絡まっていく糸の結び目を解いたり繋げたりして日日をたゆたい、寄り添い続けていく人がたくさんいることは忘れないでいたい。

今も残っている消えることのない後遺症は私の「特徴」のひとつひとつなのだ、と最近は思えるようになった。

「よくなってくれて、ありがとう」

私はひとりで頑張っていたんじゃあなかったんだっていう確かな言葉。
大切な人たちが一緒に、うしろを歩いていてくれていた。

もどっていく日常と、もうもどらない感覚と。ゆらゆら平衡をたもちながら、さらにあたらしいものを重ねていく。
色々やり過ごしてしまったり取り零したりすることもあるけれど、とりあえず「おはよう」「おやすみ」「ありがとう」が言える毎日がとても幸せだ。

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